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第15話
…二度目に会った彼は雨でずぶ濡れになっていた。
ここ数日仕事でむしゃくしゃしていてあまり日にちを空けずに比呂のところに通っていた。だからこそ彼に会うことが出来たのだと思う。
「匠、今日はもう店じまいしていい?」
外はかなりの豪雨で、もう客足が見込めないと考えたのだろう比呂にそう言われる。俺はもうじきなくなる酒を片手に構わないと返事をした。どうせ家に帰っても誰もいない。だからここに来てしまう。最近はそういうことが少なくなってきていたが、どうしてもこの季節になると人恋しさに来てしまうのだ。俺は苦笑し、度数の高いアルコールで喉を潤した。その時だった。
「どうしたのっ?」
比呂が大きい声を出したため玄関側を見ざるを得ない。そこには、この大雨の中歩いてきたのかずぶ濡れの男がいた。薄く香る匂いから、以前ここで酒を奢ったカップルの片割れだと思い出す。
比呂が慌ててカウンターに入りタオルを持って戻ってくる。彼は比呂に連れられるまま店に入り頭を拭かれていたが、少しすると腕を上げて自分で拭き始めた。再度比呂がどうしたのと問えば、彼は小声でぼそぼそと何かを言う。聞こえたのは比呂だけで俺の耳には届かず、けれど比呂は嘘だろと呟いた。
「と、とりあえず座って」
カウンターの後ろの二人席に彼を座らせ、比呂は再びカウンターの中に入ると今度は奥に引っ込んでしまった。
男は頭にタオルをかけたまま呆然と俯いていた。その様子にただならぬ気配を感じ、彼の目の前の席に座った。男は俺がいることに気づいていなかったのか、ぱっと顔を上げる。その瞳は、うつろだった。
「すみ、すみません!人がいるって気づかなくて!お邪魔してごめんなさい」
「待て」
タオルをテーブルに置き慌てて出て行こうとするのを腕を掴み止める。外はまだ豪雨だ、こんな中また出させるわけにはいかない。彼は俺に腕を掴まれたことで中腰で固まり、そのまま座り直した。
「こんな雨の中、外に出る必要はない」
「でも…」
「なにかあったんだろ。…ひどい顔をしている」
男は何か言いたげな顔をしたが、結局言葉を発さぬまままた俯いてしまう。そんな彼からはうっすらあのアルファの匂いがした。この間は濃厚な香りがしたのに。
俺は嗅覚が他より鋭いようで、発情期以外は匂いのしないオメガと元々ほとんど匂いのしないベータを嗅ぎ分けることが出来る。だから最初に会ったとき、ベータなのにも関わらずアルファの匂いがしたことに驚きを隠せなかった。アルファはアルファ、ないしはオメガと、ベータはベータと付き合うことが普通だと思っていたからだ。アルファとベータが付き合っているのを初めて見た俺は、その物珍しさから彼らに話を遮ってしまったという建前で酒を奢った。これからの彼らの付き合いを祝して。
けれどもここにいるのは傷ついた顔をしたベータの彼一人だった。
そのうち比呂が戻ってきて温かいお茶を男に握らせた。一度も見たことがないカップな為、メニューにはない商品なのだろう。彼は比呂に礼を言うと一口こくりと飲んだ。途端、流れ出す泪。ぼろぼろと水を流し続ける彼は無表情で、泣いているのにも気づいていない様子だった。
「晶と連絡は取れるの?」
「いいえ…」
首を振る彼は携帯を取り出して画面を見てやっぱりないといった風に首をもう一度振った。そこで俺は、前に一緒にいた片割れの男はどうした?と聞いた。彼はきょとんとした顔をして俺を見て、あっという顔をした。酒を奢られたことを思い出したらしい。
「先日は、ありがとうございました」
「気にしなくていい。それより、彼はどうした?」
「晶…あ、その、片割れは…」
視線が気まずそうに逸らされる。どうやらその片割れとなにかあってこのような事態になっているようだ。俺は過去にあったことを思い出し、他人事ではない気がして、よかったら話してくれないかと言った。もしかしたら何か役に立てるかもしれない、と。
彼はようやく涙を袖で拭った後、話し始めた。自分の名前、片割れ―晶と付き合ったこと、結婚してくれと言われたこと、一緒に住んでいること…片割れが運命の番と出会ってしまったこと、その彼とオメガの最近の話もしてくれた。
「それで…今日、こんなメッセージが届いて」
件のオメガからのメッセージは非常に胸糞が悪く、思わず眉を顰め舌打ちをしてしまった。
「それで、俺行かないでって引き留めたんですけど…起きたら、晶いなくて」
そこから連絡が取れないんです、と彼は続ける。このような状況では晶がそのオメガのところに行ったと思っても仕方ないだろう。しかも連絡が取れないと来た。黒に近いグレーだ。俺は話してくれてありがとう、と言い、舌打ちをしてしまったことを詫びた。
「気にしないでください。俺も、同じ立場だったら舌打ちします…」
はは、と乾いた笑いをする悠太。しかし俺より胸を悪くしていたのか、比呂がバン!と机を叩いてくそがと怒鳴った。俺も悠太もびくりと肩を揺らした。
「あいつ、連絡取ってないとか言っておいて!見てこれ!」
比呂はポケットから携帯を取り出すと、俺たちに晶とのメッセージ履歴を見せてきた。
『ねぇ晶。まさか雪と連絡取り合ってないよね』
『悠が不安がるってわかってるのに取るわけないだろ』
『ならいいけど』
二人の会話はそう続いていた。雪の話が本当なら友達にも、果ては恋人にも嘘をつく晶は大ウソつきということになる。悠太はそれが信じられないのか、神妙な顔をしてお茶をまた一口飲んだ。
「ちょっと晶呼び出してみる」
「えっ…」
その言葉に先に反応したのは悠太だった。彼は立ち上がると、いいです、大丈夫ですと言って比呂を止めようとした。おそらく悠太は晶が雪と会っているかもしれないという現実を見たくなくて比呂を止めようとしているのだろう。しかし既に比呂は晶に電話をかけているようで耳元に携帯を当てていた。数十コールの後、晶らしい声が携帯から聞こえてくる。
「晶?今どこ。いや、言わなくていい…今雪って子のところにいるんでしょ。今すぐ帰って来いくそ野郎。待って違う、俺のバーまで来い。悠太くんも一緒だよ」
電話の向こうで何かを叫ぶ声が聞こえたが、比呂はそれに応えることなく電話をぶちりと切った。それを見て悠太は諦めたのかがたりといわせながら椅子に座り込む。顔が会いたくないという気持ちを物語っていた。
その願いも虚しく、二十分ほど経った頃に玄関が開け放たれる。先ほどの悠太と同様にずぶ濡れの彼はきょろきょろと店内を見回し悠太を見つけるとすぐに抱きしめた。暖かな太陽のような匂いのする奴だった。だがすぐに比呂の手によって引き剥がされてしまう。
「せっかく温まった悠太くんが凍えちゃうでしょ!ほらタオル使って拭いて!」
比呂はその怒りに燃えた言葉とは裏腹にカウンターから晶にタオルを優しく投げつけた。晶はそれを受け取ると頭をばさばさと拭き始める。俺は彼から匂うオメガの香りに顔を顰めた。やはり雪というオメガに会っていたのは間違いないようだ。
晶はある程度雨を拭き終わるとタオルをテーブルに置き、再度悠太を抱きしめた。
「ごめん」
「…」
悠太は、何も答えない。それとも晶の謝罪に応えられないのか。悠太の顔は晶の肩口にあって表情は確かめられないが、ここに来た時と同じようにうつろな目をしているに違いなかった。
そこに割って入ったのは比呂である。
「晶、お前自分が何したかわかってる?」
「雪と、会ってた」
「そもそも連絡取ったこと自体言わないのがおかしいってわかる?お前俺に”悠が不安がるってわかってるのに取るわけない”って言ったよな。俺に嘘つくのはまだいいよ、後でこうだったんだって話してくれればそれでいい。それを恋人である悠太くんにも言わないのはどう考えてもおかしいだろ!!」
比呂がテーブルを強く叩く。晶は一度悠太から体を離すと彼の顔を窺った。
「…そう、だよな。おかしいよな。俺、悠との生活が落ち着いてからでいいやって言い訳して悠に言わないでいた…。本当にごめん」
再度の謝罪に悠太は頭を上げることなく、小声で晶は雪くんが好きなの?と問うた。晶は彼の肩を掴んで揺らす。
「そんなわけない!俺は悠が好きだ!」
晶のその答えに、ついどうだか、と口にしてしまう。晶はそこで初めて俺がいることに気づいたのか、けれど俺を睨んでどういう意味ですかと聞いてきた。
「俺は運命の番と出会ったオメガに会ったことがある。彼らは、いや、君たちは、魂レベルで惹かれ合うんだろ?そのことを知っていて、なおかつ今君がした行動を見て君の言葉を信じろという方が無理な気もするが」
「俺はそれでも悠のことが好きです。…そもそもあなた誰ですか」
「運命の番に恋人を取られたアルファだよ」
悠太がこちらを見る。その表情には驚愕が現れていた。哀れんでいて、それでいて自分と同じ境遇の人間を見つけたという顔。
二年前、俺はとあるオメガと付き合っていた。しかし彼は街で運命の番を見つけた。最初こそ俺という存在がいるのに離れるわけないと言っていた彼だったが、そのうち隠れて連絡を取るようになりある日突然姿を消した。一度は彼と邂逅したものの、彼は運命の番であるアルファと幸せそうに生活しており、俺はそこに足を踏み入れることなくその場を去った。
そんな経験がある俺に言わせれば、晶の言葉は戯言にしか聞こえない。
「あなたも…」
「悠。俺は違う、俺は悠のことが好きだよ。一番だ」
「でも、今日…俺が行ってほしくないって言ったのに晶は行った。それは事実だ」
「それは…」
押し黙る晶に、悠太は自分の携帯を差し出した。そして雪から何度も別れろというメッセージが来ていたことを告白する。そのことを知った晶は、どうして言ってくれなかったんだと言う。
「だって、晶に言ってそうだよ、雪と連絡を取り合ってる。雪の方が大事なんだって言われたら俺…どうすればいいの?」
乾ききっていた悠太の頬を大量の涙が濡らしていく。そこで晶はようやく自分のやってしまったことの重大さに気づいたのか、携帯を取り出し悠太の目の前で雪の連絡先をブロックした。そしてそのまま悠太を強く、優しく抱きしめた。
「もう、連絡取らない。雪にはもう会わない。俺には悠太だけだよ」
「うん、うん…」
「…余計なことを言って悪かったな」
俺は立ち上がると玄関に向かって歩き出した。俺に向かって晶がありがとうございましたとお辞儀するのが視界の端に映った。
外に出ると雨は雪に変わっていた。彼の太陽が、この先俺のように曇ってしまわないことを祈って。
帰ると父と母の怒鳴り合う声が聞こえた。暗い気分で帰ってきたのにさらに嫌な気分にさせられるな、と思いつつリビングに赴けばすぐに俺に視線が向けられた。母がああと声を上げながら俺に縋り付いてくる。
「匠、匠…お父さんが私をいじめるの。あのオメガが産まれてきたのは私のせいだって言うのよ」
「事実だろうが!お前が浮気でもしてあいつが産まれてきたに違いない!」
…うちの家族は、弟が産まれてきてから破綻してしまった。アルファばかり排出してきたうちの家系で初めてのオメガ。いや、もしかしたらどこかに隠蔽されているだけで、今までも生れてきたことがあったのかもしれない。どちらにしろ、うちでオメガは恥だ。俺は適当に相槌を打って母親から離れると二階にいるであろう弟の元に向かった。
「…雪?」
そっと扉を開けて中を覗き込めば、真っ暗な部屋の隅で膝に顔を埋め蹲る弟―雪がいた。雪は俺の声が聞こえるとすぐに顔を上げた。想像通り涙で顔を汚している雪は、俺の元に走ってくるなり抱き着いてきた。両親の怒声を一人で耐えていた体のその背を優しくなでてやる。
「兄さん…僕、僕」
「なにも言わなくていい。辛かっただろ、休め」
「うん…」
十七歳になる雪だが、これまで一度も両親の愛を受けずに育ってしまった。俺が何度家族を立て直そうとしても、彼らはどうやってもいがみ合う。そんな雪は、俺が育てたと言っても過言ではないだろう。
雪はそのうち泣きつかれたのかすうすうと寝息を立てて寝始めた。俺はその体を横抱きにし、ベッドに寝かせる。
―雪って子が、晶の運命の番で
―雪にはもう会わない
今日晶と悠太が話していたことがふと脳裏をよぎる。まさかな、と俺は雪に布団をかけた。
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