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二日目・水曜日
生徒会室の窓からグラウンドを見下ろせば、サッカー部も野球部も、まだ朝練をしていた。
予鈴が鳴るまであと十分。
僕は近視で遠くのものが見えづらく、眼鏡を掛けている。けれど、どれがレイヤくんかはすぐに分かる。グラウンドの声は聴こえてこないけれど、レイヤくんがサッカー部員たちに号令を掛けた。キビキビとした動作で、皆がレイヤくんの元に集まってくる。コーチと思われる人に、皆が一斉に頭を下げ、朝練は解散となったようだ。
予鈴が鳴るまであと五分。
レイヤくんが校舎に向かって走りだしたのが見えた。更衣室で着替えて、四階まで階段を駆け上がっても、生徒会室に到着するのは予鈴が鳴るギリギリのタイミングだろう。
僕はあと五分、小説の続きを読もうと本を開いた。
「ごめん、待たせたユウキ」
ノックもなく扉が開き、息を切らしたレイヤくんが入ってきた。予想したより早い到着だったのは、練習着のまま生徒会室へやってきたからだ。
「やべ、時間ないな。オレ、着替えるからさ、カード引いてくれる?」
昨晩からどんなカードが出るだろうと、思いを巡らせていた僕とは違い、軽いノリでレイヤくんが言う。
僕は棚の上からプラスチックケースをとり、一番上のカードに手を掛けた。
「じゃ、めくるよ」
「おぉ、頼む」
練習着を脱いで上半身裸になったレイヤくんと目が合ってしまった。胸板が厚く筋肉質で引き締まった身体つきに、ドキリとし僕は慌てて目をそらす。
「なんて?」
「え?」
「なんて書いてあった?カード」
「あ、ごめん。えーと」
同性の同級生の上裸を見て、こんなにも動揺している自分が恥ずかしい。子どもの頃は、お風呂にだって一緒に入ったのに。
【身に着けているものを、一つ交換する】
レイヤくんの提案で、ネクタイを交換することにした。二年生であることを表わす深緑のネクタイを。
ワイシャツを着ている途中のレイヤくんのネクタイは、まだ通学カバンの中に仕舞われている。
「ほらユウキ、ネクタイ外して」
僕はコクリと頷く。
ジャケットを脱いで、シュルリとネクタイを解く。手を出してきたレイヤくんへそれを渡した。さっきまで僕の首に巻きついていたネクタイは、レイヤくんの長い指で彼の首に結ばれてゆく。
その所作に見惚れていると、レイヤくんは自分のネクタイを取り出し、僕に一歩近づいてきた。真正面に立った彼は、僕の首にネクタイを巻き、器用に手早く結んでくれた。
「はい、これでよし」
「あ、ありがとう」
「急がないとな。オレはともかく、ユウキを遅刻させる訳には行かないから」
一緒に、生徒会室を出て一階下の教室へと走る。
きっと昼までの間、僕は何度もこのネクタイの結び目に触ってしまうだろう。
—
昼休み。
生徒会室に現れたレイヤくんに僕はまず確認をとった。
「あのさ、このネクタイの交換ってこの時間まで?」
「ん、オレはこのままずっとだと思ってた」
「ずっと?」
「ずっとは言い過ぎか。少なくとも、このゲームが終わるまではこのままでいいんじゃね?」
僕は、なぜかうれしくて、コクリと大きく頷いた。
今日もレイヤくんは学食のパンがいくつも入ったビニール袋を、持参している。
昨日はカードの内容が【一緒に食事をする】だったから、生徒会室で食べていったけれど、今日はどうするつもりだろう。
「まずはカードを引くか」
そう言って彼は、棚の上のプラスチックケースに手を伸ばし、一番上のエンジェルの絵を「えいっ」とめくった。
【スマホの写真フォルダを見せ合う】
「これ、面白そう。オレ、ユウキの写真フォルダ見てみたい!」
「そんなたくさんの枚数ないよ?」
「少しでも全然いいさ」
レイヤくんは喋りながら、パンを取り出し机に並べる。どれにしようかと悩んでから、たまごパンをガブリと口に入れた。どうやらここでお昼ご飯を食べるつもりらしい。
「レイヤくんに焼売をお裾分け」
「おぉ、やったー!」
焼売一個で、子どもみたいに喜んでくれた。アルバイト中とはいえ、常にたくさんの人に囲まれているレイヤくんを独り占めできるなんて、これは特別な時間だ。
僕はお弁当を、レイヤくんはパンを食べながら、二人で僕のスマホを覗き込む。
「この犬ってさ、ジョン?」
「そうだよー。大きくなったでしょ?」
「オレが知ってる頃はまだ子犬だったぞ。うわー可愛い。会いたいなぁ、ジョン」
僕の写真フォルダにあるのは、愛犬ジョンの散歩の画像ばかりだ。あとは、記録として読んだ本の表紙を撮影したものが少々。それで全部。
「レイヤくんのも見せて」
ウインナーが挟まったパンを、プロテイン飲料で流し込みながら、スマホを開いてくれる。
そこには僕のフォルダとは比べ物にならない枚数が、収められていた。
サッカー部の皆との写真、クラスメイトとの写真、中学の頃の友達との写真。コーヒーショップで、カラオケボックスで、ファミレスで、キャンプ場で撮られた写真、写真、写真。どの写真でも、レイヤくんは楽しそうに笑顔を見せている。
どうしてなのか。こんなにたくさんのレイヤくんの写真を見せてもらったのに、僕の気持ちは急速にしぼんでいく。
僕にとっては、こうして友達とお昼を一緒に食べることさえも特別で、心が弾んでいたのに。彼にとっては、あまりに日常の一コマなどだと思い知ってしまったから。
気分が沈んだ僕を知られるのさえ恥ずかしく、お弁当箱を持ち上げて、かき込むようにご飯を食べた。
「そうだ、ユウキ。一緒に写真撮ろうぜ」
「え?僕はいいよ……」
「そんなこと言うなよ、ほら」
突然インカメラで、カシャリと写真を撮られた。
「うーん。もっと笑って。ほら、もう一枚」
笑えと言われてすぐに笑えるほど、器用ではない。するといきなり、小学生のいたずらのように脇腹をコチョコチョと擽られた。
「やだもー、くすぐったい。ハハハ、もうやめてってば」
カシャリ。カシャリ。カシャリ。
「よし。笑ってるユウキ、ゲットしだぜ」
スマホを覗き込めば、レイヤくんと並んで写る僕は、確かに笑っているように見えた。レイヤくんも楽しそうに笑顔を見せている。
「写真送るよ。メッセージアプリのID教えて」
こうして僕らは、互いのIDを手に入れた。
レイヤくんとのツーショット写真が僕のフォルダに収まって、捻くれた心は、少しだけ回復する。
彼は、昼休みが終わる前に、サッカー部のコーチとの打ち合わせがあると部室へ向かった。
僕は、一人きりになった生徒会室でメッセージアプリを開く。
エンジェルが弓矢を持つカードの写真を撮って添え、『また、放課後に』と、レイヤくんにメッセージを送信した。
—
放課後に引いたカードで、早くも六枚目となった。
【互いに頼み事を一つする】
このカードを見て、レイヤくんは「よっしゃ」とガッツポーズをする。
「ユウキ、頼む。数Ⅱで分からないところあってさ、噛み砕いて教えてくれない?」
僕を拝むように手を合わせてきた。
「でも今から部活でしょ?」
「部活は遅れていく。オレ今度の期末テストでもし赤点取ったら、部長解任って言われてるんだ。ピンチなんだよ」
レイヤくんは文系で、理系科目が苦手らしい。
「僕でよければ、もちろん教えるよ」
「いや、マジ助かる。ユウキ絶対に教え方上手いもん」
後半の練習には参加するというレイヤくんに合わせ、生徒会室で一時間だけの勉強会が始まった。
教科書と、僕が授業をまとめているノートを見ながら、解き方の解説をする。
「ここが、こうで、こうだから……」
「あぁ、だから、こうで、こうか」
「そうそう。それで考え方は合ってる」
隣に並んで座って、僕が横から解説をする。「うんうん」と聞きながら、レイヤくんが問題を解き、間違ったときには、指で「ここが違うよ」と指し示す。
意図せずに僕らの距離はかなり近く、ふとレイヤくんのシャンプーの匂いを感じた。それに気が付いてしまえば、僕の心臓は勝手にドキドキと鼓動を早める。
「いやマジでユウキの教え方、上手いよ。オレでもちゃんと理解できた。数学の教師の佐藤より分かりやすい」
「そう、よかった」
そのとき、ドンドンとノックの音がし「失礼します」と大きな声で、礼儀正しい一年生が生徒会室に入ってきた。
「レイヤ先輩。そろそろ監督がいらっしゃいます」
「あぁ、もうそんな時間?やべー」
一年生に「すぐ行く」と告げたレイヤくんは、バタバタと片付けをする。
「ついでに、ノート、写真撮らせてもらってもいいか?」
僕がコクリと頷くと、カシャリ、カシャリと写真を撮り「じゃ、また明日な」と廊下を駆けていった。
レイヤくんの役に立てたことは、僕にとってとても幸せなことだった。
その夜。風呂から上がり、自室のベッドに寝転んでいると「ピコン」とレイヤくんからメッセージが届いた。
『ごめん』
えっ、なんだろう。
『カードの内容【互いに頼み事を一つする】だったのに』『オレ、ユウキの願い事聞いてなかった』
言われてみれば、その通りだ。
『今からでも、何か言ってほしい』『ほんと、ごめん』
変なパンダが土下座しているスタンプも送られてきて、笑ってしまう。
『いいよ。僕も忘れてたし』『頼み事何にしようかな』
僕がメッセージを送信すると、すぐに返信が送られてくる。
『なんでもいいぞ』『どんとこい』
今度はパンダが片手で逆立ちしているスタンプだ。
僕は必死に考える。今、レイヤくんにしてもらいたいことは何だろう?と。頭の中でたくさんの僕が猛スピードで会議を繰り広げた。
『通話してもいい?』
そう送信すると、すぐに着信があった。
「もしもし、ユウキ?」
「レイヤくん、こんばんは」
「思いついたか、オレへの頼み事」
「うん、変なことでもいい?」
「全然OK」
「あのね、僕、寝つきが悪くて。でもレイヤくんの声を聞いていたらスーッと寝れそうな気がする。だから羊を数えてよ」
「羊?あの羊が一匹、羊が二匹ってやつ?」
「そう。どうかな?」
「そんな簡単なことでいいのか?百匹でも、千匹でも数えてやるよ」
「ふふふ。百匹で充分。きっと途中で寝ちゃうし」
「よし。じゃ今からでいいか?」
「うん」
「もうパジャマに着替えたか?」
「うん」
「そっか、それなら電気消して、布団に入って、目をつぶって」
「あっ、ちょっと待って。……うん。準備できた」
「じゃ、いくぞ。羊が一匹。羊が二匹。あっ、そうだ。先に言っておく。おやすみ、ユウキ」
「おやすみ、レイヤくん」
「続きからな。羊が三匹。羊が四匹。羊が五匹。羊が六匹……」
ゆっくりと、眠りを誘うようなリズムでレイヤくんが囁いてくれる。一匹ずつの間に、彼がする静かな息継ぎが、心地いい。
ベッドに寝転んだ姿勢で薄暗い部屋の中を見渡せば、ハンガーに掛かった制服が見える。ダランと垂れ下がる深緑のネクタイは、レイヤくんのものなのだ。
……僕が覚えているのは、三十二匹までだった。いつの間にかスマホを右手に持ったまま、深い眠りに落ちていた。
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