9 / 66

第9話 社長の隣は危険地帯

side 一ノ瀬 遥 会場に入った瞬間、普段の俺の世界とは全然違う光景に、少し息を呑んだ。 でっかいシャンデリアの光がキラキラ輝いている。ジャズの生演奏、笑い声、グラスが触れ合う音……。 そのすべてが混ざり合って、目の前が異世界のように感じる。 しばらくの間、拓実はいろんな人から声をかけられていた。 正直ちょっと場違いな気分になるけど、隣に拓実がいてくれるだけでだいぶ心強い。 ……そう思ってたら、拓実は少し視線を先にやって、「あ……」と何かを思い出したように呟いた。 「拓実、どした?」 「あそこにいる男性、うちのばあちゃんの代から世話になってる人なんだよね。挨拶しとかなきゃな、って」 「じゃあ早く行ってこいよ」 「……うん。悪いな、遥。ちょっとここで待ってて」 そう言うと、拓実は申し訳なさそうな顔をしながら、人混みの向こうへ消えてった。 ……俺ひとりになると、やっぱ不安。 小さくため息をつく。緊張はしてるけど、動揺しても仕方ない。 拓実が戻るまで、俺はここで大人しく待ってるだけだ。 深呼吸をひとつして、周囲のざわめきに耳を澄ませる。 そんな時、ふいに近づく足音に気づいた。 「こんばんは」 振り返ると、スーツ姿の男性がニコリと笑いながら立ってた。 「……あ、こんばんは……」 声が少し詰まる。視線を自然に泳がせて、周囲をキョロキョロする。 ……拓実はどこだろう。 すると、遠目に拓実が女社長風の女性に話しかけられてる姿が見えた。 ああ、あの人にも挨拶してるのか……。 目の前の男性はにこやかに微笑みながらも、その視線は、俺を上から下までゆっくりと動く。 「あなたは、神谷社長と一緒に来られてるんですね」 「……はい。そうです」 声は落ち着かせてるつもりだけど、指先は少し硬く握りしめてた。 男性は笑みを絶やさず、胸ポケットから名刺入れを取り出す。 「改めまして、マーケティア・エージェンシーで部長をしております、田中と申します」 名刺を両手で差し出しながら、少し胸を張って続ける。 「うちは業界でも最先端のマーケティング戦略やってまして、特にエンタメ業界のブランディングには自信あります」 軽く微笑みながら、じっと俺の方を見てくる。 「今後お仕事でご一緒できたら光栄です」 「……はい、ありがとうございます」 俺も小さく頭を下げて、名刺を差し出す。 手が少し震えてるのに気づいて、心の中で苦笑した。 「一ノ瀬遥です。株式会社アークメディアホールディングス、神谷メディアの編集部にいます」 田中さんは名刺を受け取りながら、軽く目を細めて笑った。 「なるほど、神谷社長のところの編集部ですか。そうすると、直接仕事で関わる機会もあるかもしれませんね」 「そうですね……よろしくお願いします」 俺も自然に笑みを返す。けど、どこかでまだ緊張してて、肩の力が抜けきらない。 「ところで、今夜は楽しんでますか?」 「……あ、はい。楽しませてもらってます」 表面上は笑顔を作る。心の中では拓実に目をやりたい衝動を抑えつつ、会話を続ける。 「……一ノ瀬さんは神谷社長とどういう関係?」 俺は一瞬固まる。簡単に答えられる質問じゃない。 でも、視線を外さず落ち着いた口調で返す。 「……仕事の……補佐、というか」 言い方によっては怪しまれそうだけど、今はこれで充分だ。 「なるほど、そうなんですね。じゃあ、神谷社長が戻るまで……ここで少し話してもいいですか?」 ……しょうがない。 拓実の面子もあるし、ひとまずこの場をやり過ごすしかない。 「……はい。いいですよ」 俺は軽く頷いて、視線をきちんと田中さんに向ける。田中さんは少し体を傾けて、声を低くして笑った。 「もしかして、緊張してます? そういうところ、俺は結構好きですよ」 ちょっと待て、さっきより距離近くないか……。 「……まあ、少し緊張してますけど……」 自然に一歩下がろうとするが、動けるスペースはわずかだ。 田中さんは微かに鼻で笑って、グラスを軽く掲げた。 「一ノ瀬さん、さっきからずっと神谷社長のこと見てますね。よっぽど気になる存在なんですか?」 「そんな……ただ、うちの社長ですし、視界には入ってます」 声は少し震えて、自分の手をぎゅっと握りしめる。 「そんなに緊張しないで、もっとリラックスしてくださいね」 こんな距離でリラックスなんてできるかっつーの……! 「神谷社長のこと、大事に思ってるんですね」 「ええ、もちろんです」 俺は微かに身体を後ろに引いた。もうすぐ拓実が戻ってくる。 「……いいですね」 「え……?」 その呟きの意味を測りかねて視線を向けると、田中さんの目は明らかに俺を追って、その視線の端には遠くにいる拓実も映ってるようだった。 「……そういう忠誠心、僕は評価しますよ」 田中さんは俺をじっと見つめながら、グラスを傾けた。 「この業界で生き残るには、そういう関係が大切ですからね。ただ……」 少し間を置いて、田中さんは声を落とした。 「時には、もっと広い世界を見ることも必要かもしれませんよ」 「広い、世界……ですか」 俺の胸の奥がざわつく。田中さんは距離を詰めて、さらに低く囁くように言った。 「僕のような立場の人間と知り合いになっておくのも、悪くないと思いませんか?」 俺は表面上は微笑みながら、内心では必死に緊張を押さえた。 視線を前に戻すと、遠くの人混みの中で拓実がこちらに気づいて、真っ直ぐに向かってくるのが見えた。​​​​​​​​​​​​​​​​

ともだちにシェアしよう!