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第9話 社長の隣は危険地帯
side 一ノ瀬 遥
会場に入った瞬間、普段の俺の世界とは全然違う光景に、少し息を呑んだ。
でっかいシャンデリアの光がキラキラ輝いている。ジャズの生演奏、笑い声、グラスが触れ合う音……。
そのすべてが混ざり合って、目の前が異世界のように感じる。
しばらくの間、拓実はいろんな人から声をかけられていた。
正直ちょっと場違いな気分になるけど、隣に拓実がいてくれるだけでだいぶ心強い。
……そう思ってたら、拓実は少し視線を先にやって、「あ……」と何かを思い出したように呟いた。
「拓実、どした?」
「あそこにいる男性、うちのばあちゃんの代から世話になってる人なんだよね。挨拶しとかなきゃな、って」
「じゃあ早く行ってこいよ」
「……うん。悪いな、遥。ちょっとここで待ってて」
そう言うと、拓実は申し訳なさそうな顔をしながら、人混みの向こうへ消えてった。
……俺ひとりになると、やっぱ不安。
小さくため息をつく。緊張はしてるけど、動揺しても仕方ない。
拓実が戻るまで、俺はここで大人しく待ってるだけだ。
深呼吸をひとつして、周囲のざわめきに耳を澄ませる。
そんな時、ふいに近づく足音に気づいた。
「こんばんは」
振り返ると、スーツ姿の男性がニコリと笑いながら立ってた。
「……あ、こんばんは……」
声が少し詰まる。視線を自然に泳がせて、周囲をキョロキョロする。
……拓実はどこだろう。
すると、遠目に拓実が女社長風の女性に話しかけられてる姿が見えた。
ああ、あの人にも挨拶してるのか……。
目の前の男性はにこやかに微笑みながらも、その視線は、俺を上から下までゆっくりと動く。
「あなたは、神谷社長と一緒に来られてるんですね」
「……はい。そうです」
声は落ち着かせてるつもりだけど、指先は少し硬く握りしめてた。
男性は笑みを絶やさず、胸ポケットから名刺入れを取り出す。
「改めまして、マーケティア・エージェンシーで部長をしております、田中と申します」
名刺を両手で差し出しながら、少し胸を張って続ける。
「うちは業界でも最先端のマーケティング戦略やってまして、特にエンタメ業界のブランディングには自信あります」
軽く微笑みながら、じっと俺の方を見てくる。
「今後お仕事でご一緒できたら光栄です」
「……はい、ありがとうございます」
俺も小さく頭を下げて、名刺を差し出す。
手が少し震えてるのに気づいて、心の中で苦笑した。
「一ノ瀬遥です。株式会社アークメディアホールディングス、神谷メディアの編集部にいます」
田中さんは名刺を受け取りながら、軽く目を細めて笑った。
「なるほど、神谷社長のところの編集部ですか。そうすると、直接仕事で関わる機会もあるかもしれませんね」
「そうですね……よろしくお願いします」
俺も自然に笑みを返す。けど、どこかでまだ緊張してて、肩の力が抜けきらない。
「ところで、今夜は楽しんでますか?」
「……あ、はい。楽しませてもらってます」
表面上は笑顔を作る。心の中では拓実に目をやりたい衝動を抑えつつ、会話を続ける。
「……一ノ瀬さんは神谷社長とどういう関係?」
俺は一瞬固まる。簡単に答えられる質問じゃない。
でも、視線を外さず落ち着いた口調で返す。
「……仕事の……補佐、というか」
言い方によっては怪しまれそうだけど、今はこれで充分だ。
「なるほど、そうなんですね。じゃあ、神谷社長が戻るまで……ここで少し話してもいいですか?」
……しょうがない。
拓実の面子もあるし、ひとまずこの場をやり過ごすしかない。
「……はい。いいですよ」
俺は軽く頷いて、視線をきちんと田中さんに向ける。田中さんは少し体を傾けて、声を低くして笑った。
「もしかして、緊張してます? そういうところ、俺は結構好きですよ」
ちょっと待て、さっきより距離近くないか……。
「……まあ、少し緊張してますけど……」
自然に一歩下がろうとするが、動けるスペースはわずかだ。
田中さんは微かに鼻で笑って、グラスを軽く掲げた。
「一ノ瀬さん、さっきからずっと神谷社長のこと見てますね。よっぽど気になる存在なんですか?」
「そんな……ただ、うちの社長ですし、視界には入ってます」
声は少し震えて、自分の手をぎゅっと握りしめる。
「そんなに緊張しないで、もっとリラックスしてくださいね」
こんな距離でリラックスなんてできるかっつーの……!
「神谷社長のこと、大事に思ってるんですね」
「ええ、もちろんです」
俺は微かに身体を後ろに引いた。もうすぐ拓実が戻ってくる。
「……いいですね」
「え……?」
その呟きの意味を測りかねて視線を向けると、田中さんの目は明らかに俺を追って、その視線の端には遠くにいる拓実も映ってるようだった。
「……そういう忠誠心、僕は評価しますよ」
田中さんは俺をじっと見つめながら、グラスを傾けた。
「この業界で生き残るには、そういう関係が大切ですからね。ただ……」
少し間を置いて、田中さんは声を落とした。
「時には、もっと広い世界を見ることも必要かもしれませんよ」
「広い、世界……ですか」
俺の胸の奥がざわつく。田中さんは距離を詰めて、さらに低く囁くように言った。
「僕のような立場の人間と知り合いになっておくのも、悪くないと思いませんか?」
俺は表面上は微笑みながら、内心では必死に緊張を押さえた。
視線を前に戻すと、遠くの人混みの中で拓実がこちらに気づいて、真っ直ぐに向かってくるのが見えた。
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