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第13話 警戒心いっぱいのランチタイム

side 一ノ瀬 遥 夢のようなパーティーから数日後。午前の仕事を片付け、昼休憩の時間になった。 ……さて、外の空気でも吸おうかな。 オフィスを出ると、通りにはランチに向かう人々の波ができていた。 「あれ、一ノ瀬さん?」 その声に振り向くと、例の田中さんが立っていた。 ……まさかこんな所で会うとは。 柔らかく微笑む顔に、思わず胸の奥が緊張する。 「……田中さん、先日はどうも」 「偶然ですね。お昼、これからですか?」 「あ、はい。少し外で食べようかと思いまして」 そう言うと、田中さんは「もしよろしければ、一緒にどうですか?」と気さくに提案する。 田中さんとか……。 「行きつけの良いお店があるんですよ」 少し迷ったが、ここで断るのは気まずすぎる。 「では……お願いいたします」 「よかった。では行きましょうか」 二人で歩きながら、田中さんは柔らかく話しかけてくる。 どこかこちらの反応を試すような視線も感じて、警戒心がわずかに働く。 「ここです」 案内されたのは落ち着いた小さなイタリアン。窓際の席に通され、ランチセットを注文する。 「今日のパスタはトマトソースですね」 「あ、はい」 田中さんはメニューを閉じ、こちらを見て微笑む。 少し意地悪そうな目つき……それがどうにも気になり、背筋がちょっと硬くなる。 料理が運ばれてくるまでの間、軽く会話を交わす。仕事のことや、先日のパーティーの話。 田中さんは穏やかな口調で、こちらの反応を探るように話してくる。 「先日のパーティー、大変だったでしょう? 皆さん、社内でも話題になっていましたよ」 「いえ、そんな大げさな……」 「でも、初めて神谷社長と同行されたのに、しっかりされていましたよ」 その一言に、拓実に顔向けできる自分でいられた、と胸をなで下ろす。 田中さんは柔らかく微笑み、何も言わずにこちらを見つめていた。 料理が運ばれて、彩りのいいトマトソースパスタが目の前に置かれる。 「……わぁ」 美味しそう。思わず小さく声が漏れる。 自分でも驚くほど素直な反応に、顔が熱くなる。 「……すみません、つい」 田中さんは少し微笑む。 「その表情、いいですね」 えっ……? 「なにがですか……?」 「そういう素直な反応をされると新鮮ですね」 からかわれたわけではないのに、恥ずかしさがこみ上げる。 田中さんは肩をすくめ、「可愛いと思っただけです」と柔らかく言った。 その瞬間、どう返していいかわからず、パスタを口に運んで誤魔化す。 「おいしいです……」 声が自然に漏れてしまう。田中さんは嬉しそうに笑い、自分の皿に手をつける。 食事の間も会話は穏やかに続く。仕事の話、最近読んだ本の話。 窓の外を見ると、ランチの人波が流れる。そろそろオフィスに戻る時間だ。 「もしよろしければ、また今度ご一緒しませんか?」 その言葉に息が詰まる。慌てて咳払いでごまかす。 「……はい、また機会がありましたら」 曖昧な返事だとわかっているのに、田中さんは追及せず、にこやかに頷く。 「楽しみにしています。是非、連絡先を交換していただけませんか?」 「連絡先、ですか……」 この人と連絡先なんて交換していいんだろうか。 ……やっぱり断るべきかな。 無意識に手元のナプキンを握りしめてしまう。 「一ノ瀬さんが知らない業界のことも、教えられますよ」 「え……?」 「神谷社長にとっても、有益な情報もあります。もちろん、危ない話や秘密ではなく、業界の最新トレンドやマーケティング動向のような、社内でも普通に共有できる内容です」 なるほど、拓実の仕事や情報収集に必要なことなら、形式上の交換は避けられない。 「……わかりました」 警戒心を維持したままスマホを見せると、田中さんは満足そうに番号を入力する。 「ありがとうございます。一ノ瀬さん、神谷社長には内緒にしておくといいでしょう」 「……え?」 「社長に知られると、余計な詮索や誤解を招きかねません。必要な情報だけ、私とやり取りしていただければ」 ……それは理解できる。 拓実のために、そして自分が安心して業務を遂行するために、形式上連絡先を渡す。 警戒心は崩さないまま、冷静に応じた。 「……承知しました」 ランチを終え、店を出る。田中さんはにこやかに別れを告げた。 「では、一ノ瀬さん。また近いうちに」 「はい、失礼します」 軽く会釈して別れる。警戒はまだ消えていない。だが、拓実のために――業界の情報や人脈を少しでも得ることは、決して無駄ではない。 オフィスに戻ると、すぐにスマホが光る。田中さんからのメッセージだ。 "先ほどはありがとうございました。一ノ瀬さんのこと、もっと知りたいです。差し支えなければ、今度の週末にでも少しお話しできませんか?" 指が止まる。返事次第で、田中さんの狙い通りに話が進むだろう。 だが、拓実に迷惑をかけず、自分の立場を守るためには慎重でなければならない。 短く、簡潔に返す。 「ありがとうございます。週末は予定がありますので、また別の機会にお願いします」 送信ボタンを押して少しほっとする。 デスクに向き直り、午後の業務に集中する。外の光が差し込む中、心は静かに整理されていく。

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