17 / 66

第17話 二人の距離

朝の光が部屋に差し込む。 ベッドの中、隣にいつもいるはずの拓実は居ない。 昨夜のやりとりを思い返し、ため息を吐きながらリビングに向かった。 「……おはよ」 小さく声をかけると、拓実は目を細めて頷く。 「……おはよう、遥」 返事は淡く、でもいつもより少し硬い。互いに気まずさを隠そうとして、ぎこちない空気が部屋に漂う。 朝食も無言で食べる。 拓実は新聞を広げ、俺はコーヒーをすすりながらスマホをいじる。目が合っても、すぐにそらしてしまう。 「じゃ、そろそろ行くな」 拓実がやっと口を開く。 「……ああ」 俺も短く返すだけ。言葉少なに、服を整えて出社の準備をする。 玄関で靴を履きながら、拓実が軽く手を振る。 「行ってきます」 「行ってらっしゃい」 声のトーンは普段通りなのに、どこかぎこちない。 扉が閉まったあとも、昨夜の違和感がまだ胸にくすぶっていた。 * 神谷メディア編集部のフロアに足を踏み入れると、まだ空気は静かで、キーボードの音だけが響いていた。 自分の席に向かう途中、今朝のやり取りを思い出す。拓実と目を合わせたくても、自然と視線をそらしてしまったあの瞬間。 はぁ……、何やってんだか。 スマホを手に取ると、着信履歴やメッセージが気になって仕方ない。 でも、触れないようにそっとデスクの引き出しにしまい込み、PCを開く。 その時、ちょうど同僚が資料を手渡してきた。 「一ノ瀬さん、今日の件です」 「ありがとう。確認しておきます」 小さな声で応えつつ、ふと耳に入った会話に意識が向く。 「今回、アークメディアホールディングスがガーデン・プロモーションと提携するって話だよ」 「え、ガーデン・プロモーションって、あの広告代理店の……華園レイラ社長?」 思わず固まる。 そして、昨日の夜、拓実が親しげに電話していたことを思い出す。 ……華園社長か。 提携ってことは、これから拓実が仕事で直接関わる相手になる。 冷静に考えればただのビジネスパートナーなのに、頭の中ではどうしても“拓実の隣に立つ姿”を想像してしまう。 俺よりも、あの人のほうがずっと頼もしくて、ふさわしいんじゃないか。 そんな考えがよぎった瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。 自嘲気味に息を吐く。 嫉妬も、焦りも、情けないくらいに膨らんでいく。 昨夜から胸の奥にくすぶっていたもやもやは、さらに色濃くなる。 編集部の静かな空気の中、資料に目を落とすふりをしながら、胸のざわつきを抑えるのに必死だった。 * 仕事を終え、オフィスの扉を開けると、穏やかな風が肌を撫でる。 夕方の街は少しオレンジがかり、まだ夏の名残を感じさせる。 そんなとき、前方に見覚えのあるスーツ姿。 「……一ノ瀬さん?」 思わず立ち止まる。田中さんだ。 ……うわ、タイミング悪いな。 「あ……お疲れ様です。田中さん」 「偶然ですね! そうだ、一ノ瀬さん。今お時間ありますか?」 「えっと……あの、今日はちょっと……」 断ろうと口を開きかけたけれど、田中さんの口から出た言葉で足が止まった。 「神谷社長と華園社長の件、聞きましたよ」 ──その話か。 拓実のことを思い出し、昨夜の気まずさが頭をよぎる。 田中さんが探るように笑って言う。 「神谷社長と華園社長、あの二人が並ぶと絵になりますよね。まるでドラマの主演みたいで」 胸の奥がざわりと波立った。 「……そう、ですね」 田中さんは俺の反応をじっと観察するように目を細める。 「やっぱり、身近で見てるとそう思います?」 「……いえ、俺は……」 言葉が出ない。否定しようとしても、胸の奥にあるのは嫉妬ばかりで。 田中さんの口角がわずかに上がった気がして、慌てて話を打ち切った。 「すみません、今日はもう帰りますので」 「ああ、失礼しました。またぜひ」 別れ際の笑顔に、妙な引っかかりが残る。 だけどそれ以上に――頭の中では“拓実の隣に立つのは俺じゃない”という思いがぐるぐる回る。 気づけば、帰路につく足取りが重い。 玄関のドアを開けて拓実の顔を見ることが、今はただ怖かった。

ともだちにシェアしよう!