25 / 66
第25話 夕暮れ、隣で焦れる
数日後——
オフィスに入ると、編集長はいつものように机に向かっていた。
「編集長、おはようございます」
「おはよう。今日は随分と早いな」
編集長が資料から顔を上げて、俺を見る。
俺の緊張した様子に気づいたのか、少し首をかしげた。
「あの、実は……退職の件なんですが、撤回させていただきたいんです」
一瞬の沈黙。
そして——
「本当に? よかった!」
編集長の顔がぱあっと明るくなる。
その嬉しそうな表情に、俺の方が面食らってしまった。
「……ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「いやいや、迷惑だなんてとんでもない! 君がいなくなったら、俺たちの方が困るんだよ」
編集長がそう言ってくれて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
こんなにも自分を必要としてくれる人がいたなんて。
「一ノ瀬くんの企画、みんな楽しみにしてるからな。これからも一緒に頑張ろう」
「はい……ありがとうございます」
「それにしても、よく思い直してくれたな。まあ、理由はなんでもいい。君が残ってくれることが一番だ」
編集長の心から嬉しそうな顔を見て、俺もようやくほっとした表情を浮かべることができた。
*
その日は珍しく定時で仕事を切り上げられた。久しぶりに軽やかな足取りでオフィスを後にする。
夕日に照らされた街並みがいつもより温かく見える中、角を曲がったところで——
「あ……」
田中さんと鉢合わせした。
「一ノ瀬さん!」
「田中さん……お疲れ様です」
ただ、彼の表情は今までのような自信に満ちたものとは違って、どこか落ち着きがない。
まるで何かを警戒しているような、恐れているような……。
「……先日は失礼いたしました」
田中さんが頭を下げる。あの強引なアプローチの件だろう。
「いえ。あの、田中さん。申し訳ありませんが、例のお話はお断りさせていただきます」
俺がきっぱりと答えると、田中さんの顔に焦りが浮かんだ。
「いや、私は軽い気持ちでお誘いしたわけではないのですが——」
「一ノ瀬」
背後から低く響く声。振り返ると、拓実だった。
「あっ……神谷社長……」
田中さんの顔が一瞬で青ざめる。まるで天敵に出会った小動物のようだ。
「田中さん。うちの部下に手を出さないように言ったはずですが?」
拓実の声は静かだが、その底に冷たい怒りが込められているのがわかる。
「い、いやあの……それは……」
普段は饒舌な田中さんが、言葉に詰まっている。
「そうだ、田中さん。ひとつ言い忘れてました」
拓実が俺を背にかばうようにして、田中さんに近づいた。
そして短く何かを囁いた瞬間——
「す、すみません、失礼します!」
田中さんは儀礼的な挨拶だけ残して、そそくさとその場を立ち去った。
「なあ、拓実。この前、田中さんに何か言った?」
「ああ。“神谷メディアの社員を酔わせて口説くなんて、業界の信用を失うだけだ”ってね」
拓実はあくまで淡々とした口調で言う。
「それさ、拓実を敵に回すなってことだろ? 脅しみたいなもんじゃん……」
「いや。脅したんじゃなくて、正当な忠告だから」
「でも、あの怯えようは尋常じゃなかったけど」
「自覚があるからだろ。後ろめたいことをしてる人間ほど、普通の忠告を“脅し”に感じんの」
静かに言い切る拓実の姿に、田中さんが怯えていた理由を悟る。
「……ちなみにさっきは田中さんになんて言ったんだよ」
「ん? 聞きたい?」
拓実の顔はいつも通り冷静で、けれどどこか楽しそうにさえ見えた。
「……気になるじゃん」
俺が訝しむと、拓実はわざとゆっくりと歩調を合わせ、声を低める。
「そうだな。じゃあ、教えてやるよ」
拓実は一歩近づき、俺の耳元に低く囁いた。
「“俺の大事な一ノ瀬に手を出したら、君のキャリアはそこで終わる”ってね」
「っ……おまえ……!」
思わず声を荒げそうになり、慌てて周囲を見回す。
行き交う人々は誰もこちらに気を留めていない。
「大事な人を守るのに、多少の強引さは必要なんだよ」
拓実はそう言って、俺に視線を戻す。
「……はあ。変にドキドキさせられて疲れたよ」
「じゃあお詫びするからさ――このあと、少し付き合ってくれる?」
夕暮れの赤が拓実の横顔を照らす。
その笑みは、俺に断る余地なんて与えなかった。
ともだちにシェアしよう!

