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第25話 夕暮れ、隣で焦れる

数日後—— オフィスに入ると、編集長はいつものように机に向かっていた。 「編集長、おはようございます」 「おはよう。今日は随分と早いな」 編集長が資料から顔を上げて、俺を見る。 俺の緊張した様子に気づいたのか、少し首をかしげた。 「あの、実は……退職の件なんですが、撤回させていただきたいんです」 一瞬の沈黙。 そして—— 「本当に? よかった!」 編集長の顔がぱあっと明るくなる。 その嬉しそうな表情に、俺の方が面食らってしまった。 「……ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」 「いやいや、迷惑だなんてとんでもない! 君がいなくなったら、俺たちの方が困るんだよ」 編集長がそう言ってくれて、胸の奥がじんわりと温かくなる。 こんなにも自分を必要としてくれる人がいたなんて。 「一ノ瀬くんの企画、みんな楽しみにしてるからな。これからも一緒に頑張ろう」 「はい……ありがとうございます」 「それにしても、よく思い直してくれたな。まあ、理由はなんでもいい。君が残ってくれることが一番だ」 編集長の心から嬉しそうな顔を見て、俺もようやくほっとした表情を浮かべることができた。 * その日は珍しく定時で仕事を切り上げられた。久しぶりに軽やかな足取りでオフィスを後にする。 夕日に照らされた街並みがいつもより温かく見える中、角を曲がったところで—— 「あ……」 田中さんと鉢合わせした。 「一ノ瀬さん!」 「田中さん……お疲れ様です」 ただ、彼の表情は今までのような自信に満ちたものとは違って、どこか落ち着きがない。 まるで何かを警戒しているような、恐れているような……。 「……先日は失礼いたしました」 田中さんが頭を下げる。あの強引なアプローチの件だろう。 「いえ。あの、田中さん。申し訳ありませんが、例のお話はお断りさせていただきます」 俺がきっぱりと答えると、田中さんの顔に焦りが浮かんだ。 「いや、私は軽い気持ちでお誘いしたわけではないのですが——」 「一ノ瀬」 背後から低く響く声。振り返ると、拓実だった。 「あっ……神谷社長……」 田中さんの顔が一瞬で青ざめる。まるで天敵に出会った小動物のようだ。 「田中さん。うちの部下に手を出さないように言ったはずですが?」 拓実の声は静かだが、その底に冷たい怒りが込められているのがわかる。 「い、いやあの……それは……」 普段は饒舌な田中さんが、言葉に詰まっている。 「そうだ、田中さん。ひとつ言い忘れてました」 拓実が俺を背にかばうようにして、田中さんに近づいた。 そして短く何かを囁いた瞬間—— 「す、すみません、失礼します!」 田中さんは儀礼的な挨拶だけ残して、そそくさとその場を立ち去った。 「なあ、拓実。この前、田中さんに何か言った?」 「ああ。“神谷メディアの社員を酔わせて口説くなんて、業界の信用を失うだけだ”ってね」 拓実はあくまで淡々とした口調で言う。 「それさ、拓実を敵に回すなってことだろ? 脅しみたいなもんじゃん……」 「いや。脅したんじゃなくて、正当な忠告だから」 「でも、あの怯えようは尋常じゃなかったけど」 「自覚があるからだろ。後ろめたいことをしてる人間ほど、普通の忠告を“脅し”に感じんの」 静かに言い切る拓実の姿に、田中さんが怯えていた理由を悟る。 「……ちなみにさっきは田中さんになんて言ったんだよ」 「ん? 聞きたい?」 拓実の顔はいつも通り冷静で、けれどどこか楽しそうにさえ見えた。 「……気になるじゃん」 俺が訝しむと、拓実はわざとゆっくりと歩調を合わせ、声を低める。 「そうだな。じゃあ、教えてやるよ」 拓実は一歩近づき、俺の耳元に低く囁いた。 「“俺の大事な一ノ瀬に手を出したら、君のキャリアはそこで終わる”ってね」 「っ……おまえ……!」 思わず声を荒げそうになり、慌てて周囲を見回す。 行き交う人々は誰もこちらに気を留めていない。 「大事な人を守るのに、多少の強引さは必要なんだよ」 拓実はそう言って、俺に視線を戻す。 「……はあ。変にドキドキさせられて疲れたよ」 「じゃあお詫びするからさ――このあと、少し付き合ってくれる?」 夕暮れの赤が拓実の横顔を照らす。 その笑みは、俺に断る余地なんて与えなかった。

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