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第9話

 国道を少し走ると大原三千院と書かれた大きな文字看板を見つけた。参道へ繋がる坂道をバイクで上がっていった。  坂を上がった先に民家の敷地を駐車場にしている所が何ヶ所かあり、その一つにバイクを止めた。そこは無人で駐車料金は木製のポストに入れて下さいと貼り紙があった。 「誰もいないんだ。のんびりした場所だね、大原って」 「ゆうても今だけやで、人少ないのは。紅葉のシーズンになったらな、もの凄い人が集まってくるんや」  健吾は木製ポストに駐車料金を入れた。 「こっちや。すぐそこやし」  緩やかな坂道を上がっていくと、細い川に架けられた赤い欄干の橋があった。その橋を渡ると目の前に高い石垣と、なだらかな石段が続いていた。 「三千院はな、門跡寺院ゆうてな、格の高い寺なんや。中にな、めちゃくちゃ綺麗な庭があるんや」 「へぇ…詳しいんだ」    健吾は、まぁな、と言った。石段を上がっていくと、堂々とした風格を備えた三千院の立派な門があった。そこををくぐり抜け拝観受付を済ませた。 「靴、脱いで、この袋に入れて自分で持っていくんや」  健吾はそう言って、箱の中に用意されているポリ袋を手渡してくれた。  寺院の本堂に上がると、空気が違った。凛とした静寂の中に微かなお香の匂いがした。本殿へ繋がる薄暗い板張りの廊下を順路と描かれている矢印通りに進むと、畳敷きの広間があった。  そこの濡れ縁からは、思わず声を出してしまうくらいの美しい庭が広がっていた。  手前にある池から奥へと徐々に緩やかに高く続いてゆき、石燈籠や高さの違う木々が絶妙に配置され、木々の葉や苔などの幾種類の緑がおりなす本当に美しい庭園だった。まるで一枚の絵さながらだった。 「ここでな、あの庭を見ながら考えとったんや…もっと寒い時やったけどな」  健吾は、淋しいような、でもどこか懐かしむ表情で、美しい庭園を見て言った。 「そうなんだ…その、引退とかのこと?」  ああ、と一言いうと、健吾はゆっくり歩いていき、手入れの行き届いた板張りの濡れ縁に腰を下ろした。 「どのくらいおったか、はっきりと覚えてへんけど、気い付いたら、今みたいな夕方近くになっとたわ」 「で、健吾なりに納得のいく答えが見つかったの?」  健吾は意外な顔をして俺を見た。 「お前、そんなこと言うんや」 「何がだよ」 「もっとな、なんていうか…そんなシビアなこと言うとは思わんかった」 「じゃあ、何て言えばよかったんだよ」 「いや…そうやな。お前の言う通り、俺は答えを出すためにここで考えたんや。それで、今の俺がいてる」  参拝客も少なく、静かな庭を俺たちはしばらく黙って見つめていた。  怪我が治った後な、と健吾が話し出した。 「医者からはな、この先も選手続けたかったら、無理はせんようにって言われてな」 「医者の常套句だよね」 「そうなんや…でもな、無理してやってナンボやろ。最初から無理はあかんて思ってできるかって話や」 「だったら、リハビリをして無理ができる体に戻せばいいんじゃないの?」  また、健吾は俺の顔を見た。 「それも、考えたわ…でもな、俺がリハビリしてる間は…その、10番は他の誰かがやるわけや。で、リハビリが上手いこといって、また復帰するわって…そんなん勝手すぎひんか?」 「でもさ、それがプロのスポーツだろ?強い奴が強いんだよ」 「ああ、その通りやけど…お前、なんか突いてくんな」  健吾は、俺の脇腹を手刀で突いた。 「陸上とか水泳とか、個人の力本位のスポーツやったらそれでいいんや…けどな、ラグビーは一人ででけへん、十五人が一つの体になって闘っていくんや。俺は司令塔や。俺がおらん間だけ頼むわって、頭だけすげ替える訳にはいかんのや」  健吾は、俺より自分に話しているようだった。 「引退が決まった先輩から、俺は10番を託されたんや。後は頼むで、ってな…」  健吾が話すその声は少し震えているように、俺には聞こえた。 「だから、俺は次の奴に10番を託した。後は頼むでってな。でもほんまのこと言うたらな、まだやりたかったんや。ボロボロになるまでやりたかったわ。我儘でも10番にしがみついたろかって思ったわ…それで、何の使いもんにならんようになってしもて、それで誰かに幕引きされんのも、情けないしな。最後は自分で決めなあかん思ったんや。今やったら、俺は選手以外、何でもできんねん。チームを強くするためやったら俺はそれでいいねん。ラグビーはチームでするもんや。一人では出来へんねん…だからな、チームで10番つけてる選手最後の俺を見て欲しかったんや、唯斗にな」  俺は、心の中で、あの時、健吾はめちゃくちゃカッコよかったよ、って言った。 「引き際の美学だね」  健吾は、クスッと笑った。 「そうや、引き際が肝心や。お前ええこと言うな」 「この庭のせいだよ。心が澄んで穏やかになるよ」 「ああ、せやろ。ここは心の洗濯機や」 「…えぇ?何か違うよ、洗濯機は」  健吾は、やかましわ、って言って、俺に本日三回目のヘッドロックをした。

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