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君み捧げる千の花束 1

 そのカフェはかつての彼が自分の城だと笑っていた時の雰囲気とよく似た店だった。  開店して早々に閉めて、しばらくはさまざまな飲食店が後に入っていたが、そのうち建物自体が取り壊されて更地になっていた。  『la fluorite』の名の通りに宝石のように思っていた場所だったが…… 「コーヒーは僕の方がうまいな」  そっと口をつけたコーヒーは苦さはちょうど良かったけれど、少し酸味がきついように思えた。  カフェのインテリアにかつての自分の店の影を見て懐かしむ。けれど彼はその店を手放したことに後悔はなかった、もっと大事で優先すべきものがあったからだ。  ――――からん  小さくドアベルが鳴り、新しい客が入ってきたのがわかる。  昼を過ぎて少し休憩を……と言う時間だけあって店内は騒がしかったが、背後を占めていたその音が一瞬やんだ。  靴音さえ聞こえるような不気味な沈黙。  革靴が立てる音に振り返ると、画面から抜け出してきたような と言う言葉を体現した存在が彼の方へ向かって歩いてきていた。  店内でほっと一息ついていた客たちは、全員その長身の男に視線を向けている。  かつて伸ばされて明るい茶色だった髪は、黒く色を変えられて短く整えられ、大人のような身長があってもどこかあどけなさの残っていた顔立ちは鋭利なナイフのようで、触れれば切れそうな……それでいて触れずにはいられないような雰囲気を醸す。  黒い縁の眼鏡をかけて、お手本のように整った顔は端正だからと感じる退屈さはなく、むしろ無表情だと言うのに咲き誇る花のようだった。 「  ――――おひさしぶですね。須玖里さん」  声は響きがよく聞きとりやすいバリトンで、声が聞こえた客がほっと息を吐くのが聞こえる。  けれど須玖里はその男を嫌悪の表情でしか見ることはできない。  なぜなら、黒髪に黒い眼鏡、そして飾り気のない素っ気ないスーツをきて禁欲的に見せているこの男が、自分の恋人をレイプしただけでなく……彼の首を噛んで永遠に消えない傷を残した相手だったからだ。 「…………座ってくれないか」  当時は彼は学生でまだ子供だった。  須玖里は何度もそう自分に言い聞かせ、分別のない子供が思慕を拗らせた末の犯行なのだと……けれど、恋人の受けた傷は何年も経った今も尾を引き苦しめている。  そんな相手に、自らが呼び出したとは言え、挨拶すらも返したくはなかった。  須玖里は呼び立てておいて一言の挨拶もない無作法を咎めない相手が、目の前の椅子に座るのをじっと見ていた。  

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