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落ち穂拾い的な 怪我したとこは禿げるよね
白い清潔な処置室は消毒液の臭いが満ちている。
喜蝶は診察台に腰掛け、真っ白なガーゼが腕の傷を覆っていくのを黙って見つめていた。剥ぎ取られた髪の付け根が脈打つように痛み、体を動かすたびに肋骨が軋む。
拭われたとはいえ取りきれない鉄錆の臭いが鼻をつき、本能的に感じる嫌悪感に顔が自然としかめられていく。
「……入院を勧めるよ、アゲハさん。ここは僕の家が経営に携わっている病院だから誰に気兼ねする必要もない。君が望むなら、最高の医療と静寂を用意できる、ゆっくりしたらいいよ」
入り口に佇む奏朝が、相変わらず塵一つないスーツ姿で声をかけてきた。その声はどこまでも穏やかで、まるで親しい友人を案じているかのようだ。
手当を受けながら喜蝶はそちらを向き……出会った時から変わらない、緩やかな笑みを浮かべる奏朝を見る。
それは、弟を殺しかけた人間の前に立つ表情ではなかった。
「いや……結構です。手当が終わったらすぐに帰るんで」
喜蝶は、奏朝の差し出した親切を、剥き出しの警戒心で跳ね除けた。
「そんな体で? 酷い有様だよ。無理をすれば大切な人の快復を見届ける前に、君自身が事切れてしまう。それでは元も子もないだろ? 尊臣も取り乱して、結局僕に連絡が来るだろうし」
奏朝の言葉は、心の底から喜蝶を心配しているようだった。
「……これ以上、あんたに世話になりたくないんだよ」
喜蝶は立ち上がり、重心の定まらない足で奏朝の正面に立った。不思議そうに首を傾げる奏朝の、その冷徹な双眸を真っ直ぐに射抜く。
「奏朝さん。あんた、本当は自分で正臣を捕まえることなんて、造作もなかっただろ」
奏朝の表情は変わらない。
「……どういう意味かな」
「あんたの権力と人脈があれば、正臣の居場所を突き止めて、ありとあらゆる方法で手下を使って静かに回収するなんて簡単だったはずだ。それなのに、あんたはあえてオレを使った。オレが正臣を憎んでいて、薫のために命を投げ出す準備ができていると知っていて、あえて『私刑』の場を用意したんだ」
喜蝶は一歩、奏朝に詰め寄った。
「あんたは、あいつを教育したかったんだろ。身内に甘やかされて増長しきった出来損ないの弟を、一度どん底まで叩き落とす必要があった。でも、あんたが直接手を下せば、一族の中でのあんたの『聖人君子』としての顔に傷がつく。だから、オレという『部外者』に正臣のプライドを完膚なきまでに破壊させたんだ」
喜蝶の言葉を奏朝は否定も肯定もせず、ただ静かに聞き入っている。
「……正臣は、あんたに助けられたことで、あんたに逆らえなくなった。恐怖と恩義で、完璧に首輪を繋ぎ直されたんだよ。……ついでに、薫というオレの弱みも握れた。オレが正臣を殺しかけたあの現場をあんたの部下たちがバッチリ抑えてる。オレも、正臣も、まとめてあんたの手のひらの上だ。……そうだろ? 珍しい、『運命の番』から生まれた優性の強いアルファが二人もあんたの手の中だ」
沈黙が流れる。
やがて奏朝の唇の端が微かな、しかし歪な曲線を描いた。
「 アゲハさん。君は、やはり面白い」
奏朝は喜蝶の額に貼られたガーゼの端を、慈しむように指先でなぞった。
「真実に辿り着いたところで、何が変わるわけでもない。……君は薫くんを救い、僕は弟の首輪を手に入れた。ウィンウィンの関係だとは思わないか?」
その冷たい指先に、喜蝶は背筋が凍るような戦慄を覚えた。
この男にとって、人の感情も、絆も、命さえも、ただの「駒」の効率を上げるための潤滑油に過ぎないのだ。
「……最低だ、あんたは」
「ありがとう。もちろん褒め言葉だろう? ……車は用意してある。家まで送らせよう」
奏朝はそう言い残すと、優雅な足取りで廊下の闇へと消えていった。
喜蝶は、震える手で自分の腕を抱きしめた。
薫を救ったはずの光の中に、逃げ場のない真っ黒な影がどこまでも伸びているのを感じていた。
END.
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