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落ち穂拾い的な この二人、誰かわかります?

 車内に電子音が鳴り響き、土岐は慌ててハンドルを切ってバンを路肩へと寄せた。  画面に表示された『ヒタ』の名前を見るなり、土岐の表情が和らいですぐさま通話ボタンを押す。 「ヒタ? どうした、こんな時間に――……えっ⁉︎ 本当に⁉︎」  土岐の声が裏返り、歓喜と驚きで肩が激しく震え出す。  後部座席に沈んでいた喜蝶はそのただならぬ様子に身を乗り出し、「おい、どうした」と鋭く尋ねたが、土岐は受話器を握りしめたまま、ポロポロと涙をこぼし始めた。 「息子が……今、歩いたって……っ初めて、自分の足で……」  嗚咽混じりの報告に、焦っていた喜蝶は拍子抜けしたように吐息をつき、再び痛む体をシートに沈めた。なんだ、そんなことかよ、と毒づく声はどこか優しさを孕んでいる。 「そっか……もう、そんなに大きくなったのか」 「ああ……申し訳ない、取り乱して。でも、この幸せもあの時……喜蝶くんがヒタを拒否してくれたおかげなんだ。本当に」  数年前の、嵐のような出来事の記憶が車内をかすめる。  土岐のパートナーであるヒタは、最悪のタイミングで「運命の番」である喜蝶と出会ってしまった。  αとΩが惹かれ合う本能。  抗いようのない「運命」という引力に捕らわれれば、既存の絆など容易く引き裂かれるのがこの世界の常識で……けれど、その誘惑に喜蝶は揺らがなかった。  目の前で発情し、甘い香りを振りまきながら縋りつくヒタに対し、彼は一切の熱を帯びることもないまま冷徹なまでに冷静だった。喜蝶は本能に引きずられるヒタを即座に確保すると、土岐に連絡を入れ、迷うことなく彼に引き渡したのだ。  その後、土岐はヒタと共に発情期用シェルターへと入り、命を懸ける思いでその首を噛んだ。  そうして成立した「番」という絆は、新しい命の歩みとなっている。 「あの時、君がヒタのヒートに当てられなかったから、俺たちの今の幸せがあるんだ。いくら感謝してもしきれないよ」 「大袈裟だろ。獣じゃないんだからさ……そこんところの理性くらい、持ち合わせてるさ」  喜蝶は窓の外、遠ざかる街灯の光を見つめながら淡々と言い放つ。  実際、世のアルファたちは「運命」を神聖化し、抗えないものとして崇めるが、喜蝶にとってそれは鼻で笑うような滑稽な話でしかなかった。  あの時、世界が推奨する「運命の相手」であるヒタが放っていたフェロモンは、喜蝶にはただの不快な臭いにしか感じられず、心拍が跳ねることも頸を噛み千切りたいという衝動に駆られることもなかった。  喜蝶にとって、本当の意味で血が沸き立ち、その一挙手一投足に魂を揺さぶられるのは、ただ一人――――   「……本能がどうとか、どうでもいいんだよ」  喜蝶は傷だらけの腕を抱いて目を閉じた。  ビターなチョコレートのような、ほろ苦い想い。  自分を突き動かすのは遺伝子に刻まれたプログラムなどではなく、喜蝶という一人の人間が自らの意志で選び取ったものだった。 END.

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