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第9話 甘美な香り

「ただいま戻りました」 「お帰りなさい、社長。お待ちしておりました」 二十四階建てビルの、十階。 帰宅の途に向かう会社員たちとは逆向きに歩きながら、氷岬は首を傾げた。 普段と変わらない景色だが、何かが違う気がしたのだ。 空気感、とでもいえばいいだろうか。 そういうものに敏感な煌誠はいつも通りで、自分の気のせいかと思った氷岬はスタッフカードを翳すと広々としたフロアに入っていく。 氷岬の会社に個人で決められたデスクはなく、氷岬であっても他の社員と横並びで作業する。 会議室は、半個室のものが二か所、そして完全個室になる会議室も二ヶ所存在した。 社員もそのほとんどが在宅で仕事をしており、定時後の閑散とした社内で唯一残っていた秘書の男が氷岬の傍へ駆け寄って来る。 秘書が口を開く前に、キョロキョロと辺りを見回していた氷岬が先に声を掛けた。 「……今日は何か……清掃とかがありましたか? それとも、生花でも活けたのでしょうか。普段とは違う香りがしますね」 「社長、おわかりになるのですか? でしたら、一大事です」 氷岬の発言に、普段は物静かな秘書が興奮したように目を輝かせる。 煌誠はその二人の会話を聞きながら、なんとなく直感で、自分にとって面白くない話が続く予感がした。 「実は今日、社長に会わせてくれっていう人が来たんですよ!」 「そうですか」 しかし氷岬は、まだピンと来ていないらしい。 「今日は社長が不在だと言っても、待たせてくれの一点張りで。仕方がないので先方が納得するまであちらの小会議室で待たせていたのですが、流石に定時が過ぎたので、先ほどお帰りいただきました。こちらが、お相手の残した連絡先です」 秘書の渡そうとした紙切れを、氷岬より先に、煌誠が奪い取る。 秘書は眉間に皺を寄せたが、氷岬はそんな煌誠を咎めることなく、会話の先を促した。 「それで、用件は聞きましたか?」 「はい。アプリで、0番……社長とマッチングしたと」 「……え?」 「社長の運命の番だったんですよ、その人!!」 氷岬の鼓動が、ドクンと激しく打ちつけた。 目を見開いて、秘書が示した小会議室を振り返る。 思わず走って、その中へ入った。 「……Ωの、フェロモン……」 ふわりと漂う、独特な甘さ。 実に十年ぶりに感じたΩのフェロモン、それも運命の番の香りにあてられ、氷岬の身体にぶわりと熱が集まる。 どんなΩのフェロモンにも反応しなくなっていた氷岬の感覚を呼び覚ますほどの、甘美なフェロモン。 それは、確かに先ほどまで、ここに自分の番がいたのだということの証明に他ならなかった。 サンプルデータは一件でも多いほうがいいということで、αである氷岬の遺伝子情報は0番で登録されている。 職員の試験データということもあり個人情報は未登録のため、情報開示請求がきた際には会社へ問い合わせるという内容が記載されていたはずだ。 つまり、氷岬の番はわざわざ自分の足を運んで、会社まで来てくれたのだ。

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