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第10話 運命の番
「煌誠さん、その紙を……!」
秘書の興奮が伝染したかのように、先ほど取り上げられた連絡先を煌誠から貰おうと手を伸ばす。
しかし、煌誠がその手に紙切れをのせることはなかった。
「煌誠さん……?」
もどかしくて堪らず、自ら更に手を伸ばして煌誠の持つメモに触れようとした氷岬はそこで初めて、煌誠の様子がおかしいことに気づく。
どす黒く広がる、圧倒的な陰気。
Ωのフェロモンに夢中だった氷岬は、自分が何かを間違えたことに気づく。
氷岬は一度大きく息を吸い込むと、二人のただならぬ気配に怯える秘書を、先に退社させることにした。
「今日もお疲れ様、あとはこちらで処理しますから、気を付けて帰ってください」
「お、お先に失礼いたします……」
氷岬の意図を正しく読み取った秘書は、恐る恐るといった様子で氷岬を窺い見る。
氷岬が心配ない、という意味を込めてこくりと頷くと、そこでようやく秘書は安心したのか、フロアから去って行った。
そのやり取りで一旦落ち着いた氷岬は秘書を見送ると、煌誠と向き合う。
「……駄目だ、許さない」
「煌誠さん」
「お前も、俺を裏切るのか」
「そんなことはいたしません! ただ、私の番がせっかく……番に、会ってみたくて」
必死な様子で話す氷岬を冷たい目で見据えながら、煌誠はスマホを取り出す。
そして、氷岬の目の前で「よぉ、|伊吹《いぶき》か。仕事だ」と、組の面倒事や汚れ仕事を請け負う人物に電話をかけた。
「煌誠さん」
「ああ、俺だ。そうだ、最近暴れてないから、つまらなかっただろう。お前に処理してもらいたい奴がいる」
「煌誠さん、やめてください!」
氷岬は煌誠の手からメモを取り上げようと必死で手を伸ばしたが、体格も良く力も強い煌誠には全く敵わない。
「ああ、ちょっと待った。……なんだ氷岬、どうした? 悪いな伊吹、後でかけ直す」
用件はわかりきっているのに、わざわざそんなふうに尋ねてくる煌誠を、氷岬は生まれて初めて恨めしく感じる。
「お前の一番は誰だ」
「煌誠さんです」
判で押されたように、氷岬はいつも通り答える。
「そうだよな。じゃあ、十年間ずっと傍にいて可愛がってやった俺と、会ったことすらない番、どっちを選ぶんだ?」
「それは……もちろん、煌誠さんです」
ぐっと拳を握って、それでも氷岬は真っ直ぐに煌誠を見て言いきった。
「だよな。お前は俺を裏切らない」
「はい」
「だったら、このメモの奴がどうなろうと、俺がどうしようと、勝手だろう」
「それは……やめて、いただきたいです」
「なんでだ」
「その人に、非はないからです」
氷岬が必死で言い募ろうとすればするほど、その姿は煌誠の神経を逆撫でする。
「あるさ。こいつは俺からお前を奪うかもしれない、唯一の人間だ」
「そんなこと……」
あるはずがない、と言いたかった。
主導権を握っているはずの煌誠の瞳に、大きな不安が渦巻いていることに気づいてしまったから。
しかし正直なところ、氷岬にはわからなかった。
今まで感じたことのない衝動が、欲望が、氷岬の身体を駆け巡っている。
ただ番のフェロモンを嗅いだだけで、今すぐそのフェロモンを所持する人の下へ駆け寄りたいなどといった感情が生まれるなんて、思ってもいなかった。
氷岬は愚直と言っていいほど、煌誠に対してずっと、誠実だった。
だから、言葉に詰まるというその態度ひとつで、氷岬の感情が、戸惑いが、煌誠に伝わってしまう。
煌誠ではなく番を選んでしまうかもしれないという、頭の中を一瞬だけ掠めた思いが、一番伝わってはいけない人間に伝わってしまったのだ。
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