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【過去編】 2.天使の感触を知る。
あたたかい。それに柔らかくて、いい香りがする。
ラスヴァンは、頬に触れる感触と、自分の手が揉みしだいているそれに、意識がぼんやりと惹かれていた。目を閉じたまま、しばしその心地よさに酔いしれる。
もにゅもにゅもにゅ――
「……柔らかすぎる。ここが……天国か……」
「……あの、生きてますよ///」
その声に、ラスヴァンはぱちりと目を見開いた。
「起きてよかった……」
金髪の青年が顔を真っ赤にして立ち上がり、ズボンの尻を慌てて両手で覆う。
ラスヴァンはその仕草を目にして、ようやく自分が相手の尻をつかんで膝枕されていたことに気づいた。腰に巻きついていた腕が、名残惜しそうにゆるんだ。
「怪我は大丈夫ですか?」
幼い顔立ちの青年が、遠慮がちに彼の顔を覗き込んでくる。優しい声音が、寝起きにも心地よい。
ラスヴァンは、しばらく視線を一点に留めたままだった。
「なんか……ぼーっとしてます? 痛みます?」
「……天使って、ケツでかいんだな」
そう言いながら、彼は青年のお尻に一本指を沈める。
むにゅ。
その瞬間――
ボフンッ!
枕が、見事にラスヴァンの頭を打ち抜いた。
「な、なにしてるんですかっ///!」
青年ジェイスの振り下ろした枕に打たれ、ラスヴァンは目を瞬かせた。
(俺が打撃を避けられなかった……いや、避けなかったのかもしれない)
ヴォルクでは、敵意むき出しの奴らばかりだった。常に警戒を張っていたし、寝ていても誰かの気配にはすぐ目を覚ました。
けれど今、目の前にいるのは――
頬を赤らめ、情けない声で抗議してくるこの青年で。
そこからは、柔らかい雰囲気しか感じなかった。
(……むしろ、この一撃は……なぜか悪くない)
―――
「オレの名前は、ジェイスです」
十八歳のジェイスは、金髪のショートカットと澄んだ碧い瞳が印象的な青年だった。
体格は中肉中背、背丈は一七六センチほど。線は細すぎず、健康的で柔らかい印象を与える。
性格はぽやんとして素直。人を疑うことを知らないような優しい眼差しで見てくる。それがラスヴァンには新鮮だった。
ジェイスは、ここがリーヴェルという田舎の町で、ラスヴァンが丸一日眠っていたこと、そして怪我は見た目ほど深くなく、薬草と飲み薬で快方に向かうと医者が言っていたことを教えてくれた。
ラスヴァンが山の上から見下ろした小さな町は、きっとこの場所のことだったのだろう。
彼はよく喋った。
表情がコロコロと変わり、素直な性格がそのまま表に出る。
ラスヴァンの周りにはいなかったタイプで、眺めているだけでも飽きなかった。
室内を見回すと、古い小さなベッドを二つ並べて、その上に身体の大きいラスヴァンを寝かせていたらしい。他に椅子が二つ、木の机がひとつ。物は少なく、裕福な暮らしではないことが伺える。
ジェイスがひとしきり話し終えると、部屋に静けさが落ちた。
やがて彼は、冷めかけたお茶に目を落としながら、ぽつりと呟いた。
「……ラスヴァンさんは、旅人ですよね。ひとりなんですか?」
その問いに、背中に包帯を巻いたままの男はわずかに眉を動かし、視線を逸らした。
「……おまえは?」
「俺は……ばあちゃんがいました」
「……そうか、気の毒だったな」
「いえ、今も元気です。オレが十八歳になって花屋を継いだので、今は隣の王都で婚活中です。金持ちのジジイを捕まえてくるって……」
「……元気なばあさんだな」
ラスヴァンが笑うと、ジェイスの口元にも微かな笑みが浮かんだ。
そのまま、彼は自然と男の名を呼ぼうとして──ふと、ラスヴァンの瞳が鋭く細まる。
「……待て。なぜ、俺の名を知っている?」
「ご、ごめんなさい! その……木札が……リュックから見えて……勝手に見てしまって……」
ジェイスはリュックからはみだしていた、一枚の手のひらほどの煤けた札を取り上げ、彼に見せた。
「……これに、『ラスヴァン』って書いてありました」
おそるおそる差し出すと、ラスヴァンは目を細めてそれを受け取る。
じっとまじまじと見つめ、指先で文字をなぞった。
その札は、木を削って作られた簡素なものだった。
まるで焼きごてのように、名前が浅く刻まれている。
リュックにしまいこんでいたのは、持っていることで過去を思い出してしまうからだったのかもしれない。
これは、孤児として施設に引き取られた時、職員に名前を間違われぬようにと渡された「識別の札」だった。
「……へえ、これが……オレの名前か」
「……えっ、知らなかったんですか!?」
思わず身を乗り出すジェイスに、ラスヴァンは肩をすくめた。
「知ってた。音では。でも……字が読めない」
「字ぃ……」
ジェイスは言葉に詰まり、それからそっと尋ねる。
「今まで名前書くとき、どうしてたんですか?」
「名前を書く場面なんて、あんまりなかった」
「え、と……婚姻届とかは?」
「婚姻届? オレはゲイだから、関係ないな」
「……ゲ、イ??」
ジェイスは目をまんまるくして固まった。
ラスヴァンはその様子を見て、ふっと小さく息を吐く。
(ああ……知らねえんだな)
王都では同性婚を認める地域もあったが、ヴォルクやリーヴェルのような田舎町では、まだまだ浸透していないのが現実だった。
「気にするな」
「……あ、はい」
ラスヴァンがそっけなく視線をそらすと、ジェイスはプライベートなことを聞きすぎたと気づいて、少し肩をすくめた。
沈黙が落ちる。
「………………」
「………………」
けれど、手の中で木札をさわり続けるラスヴァンの様子が、どこか寂しげに見えて、ジェイスは胸がきゅっと締めつけられる。
「……あ、あの」
思いきって声を出す。
「よかったら、オレ……字を教えられます」
「……教える?」
「はい。あなたの名前がどう書かれてるか、読めるようになるまで。何度でも!……あ、もちろん、ラスヴァンさんさえよければ……」
まっすぐな眼差しで言葉を差し出すジェイスを、ラスヴァンはしばし見つめた。
唇の端が、わずかにゆるむ。
「……ああ、頼む」
夜が更け、ろうそくの炎が静かに揺れていた。
ジェイスは戸棚をがさごそと探り、小さな紙の切れ端と、木炭のかけらを取り出した。
「……これしかなくて、汚いですけど」
「いや、十分だ」
ラスヴァンは椅子に腰を下ろし、机の上に置かれた紙を見下ろす。
「この木札の文字を見ながら、この紙に書いてみてください」
「ああ……」
ラスヴァンは木炭を握り、生まれて初めて字を書いていく。ゆっくりと、丁寧に。
――『ラスヴァン』
書き終えると、
「うんうん、上手ですね!」
まるで自分のことのように喜びながら、ジェイスがぱちぱちと拍手を送る。
その姿を見て、ラスヴァンはふっと笑った。
「どうですか? 書いてみて」
ラスヴァンはその紙に視線を落とし、指先で文字をなぞった。
炭の粉が、ほんのりと指を黒く染める。
しばらく見つめたまま、低く呟いた。
「……悪くないな。ちゃんと形があるって、いいもんだ」
「へへっ……よかった」
ジェイスは嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見て、ラスヴァンも笑みをこぼす。
いつのまにか、ふたりの距離は、肩が触れそうなくらい近くなっていた。
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