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【過去編】 8.ふたりの片想いと森の熊

ふたりは仲直りしたが、ラスヴァンはジェイスへの心遣いが強くなり、前より肌に触れたり、近づく行為を控えるようになった。 (……う、ん? こう考えちゃいけないのかもだけど……やっぱり、なんかラスヴァン、変わった?)  ジェイスは、ラスヴァンのことをもっと知りたくて、図書館で熱心に“例の本”を読んでいた。  図書館のすみっこで、身体を縮めるように読みふけるジェイスの姿を見かねた司書が、笑顔で話しかける。 「ジェイス、その本がそんなに気に入ったなら、プレゼントするよ」 「え!……え、いや……そんな……悪いです……」  そう言いつつも、本をぎゅうっと抱きしめる。 「いいんだよ。今まで利用者がいなかった本だから、読んでくれる方が本も喜ぶんだ」  司書の優しい申し出に、ジェイスは深く頭を下げて礼を言い、本を抱えて図書館をあとにした。 ―――  その夜。  部屋の灯りはすでに落ち、窓から静かに月明かりが差し込んでいる。  ジェイスは布団の中にくるまりながら、顔だけ出して“例の本”を開いていた。ラスヴァンを起こさないように、指でそっと文字をなぞりながら。  表紙には、『特別な関係――親密な絆とそれ以上について』の文字。  ジェイスは声にならない声で、そっとページをめくる。 「……相手の男性に触れられて心地よいと感じるなら、それは恋愛感情の可能性があります”……」 (……オ、オレ……心地よかった、かも……) 「“相手が他の人と親しくしていると、そわそわしたり不安になるなら、それは嫉妬です”……」 (ラスヴァンが……他の人と話してるとき……?) 「……“この気持ちが恋かどうか分からないときは、相手のことを考えてみてください。ドキドキしたり、胸が苦しくなるなら、あなたはもう恋に落ちているかもしれません”……」 (……ドキドキ、胸が苦しい……)  思い当たることが多すぎて、指がページの途中で止まる。  ふいに、記憶の奥底から――ラスヴァンの裸が頭に浮かぶ。 (ラスヴァンの……////)  自分以外の身体を見て、驚きと恥ずかしさを感じて、なぜか心臓がドクドクして――視線が外せなかった。 (うぅ……なんかドキドキして熱くなってきた……)  胸の高鳴りがどんどん大きくなり、自分の体の反応にも慌てて、ジェイスは本を閉じると、そのまま布団に潜り込んだ。 (……やっぱり、オレ、ラスヴァンのこと……) 「……好き、なのかな……」  小さく漏らしたその言葉は、誰にも聞こえなかった――はずだった。  しかしその時、部屋の床がわずかに軋んだ。 (……まさか……き、聞かれてた!?)  足音が近づいてくる。ジェイスのベッドのほうへと。 (やばい、寝たフリ……!)  ぎゅっと目を閉じた直後――  バサッ。  布団が、容赦なくひっぺがされた。 「ぅひゃっ!?」  金髪の頭がびょこんと飛び出し、まん丸の青い目がラスヴァンを見上げた。  黒髪の男は眉をひそめ、覗き込んでくる。 「……大丈夫か? ブツブツ言ってたが」  ジェイスは硬直したまま、口をパクパクさせる。 (やばい……ぜったい聞こえてた……“好き”とか!) 「な、なんでも、ない……!ただの、読書っ!」  本をぎゅっと抱えたまま、ジェイスはあわてて身体を起こした。  ラスヴァンは、その“例の本”にちらりと視線をやるが、まだ読めない文字ばかりだった。 「……ジェイス」 「な、なに……?」 「……読むのもいいが、疑問があるなら、直接俺に聞け」  その言葉は静かで、真っ直ぐだった。  ジェイスは息を呑んで、目を見開いた。 「お前のブツブツは、オレに関係あることが多いからな」 「な……!////」  ラスヴァンはそれだけ言うと、立ち去ろうとした――が、  ジェイスはとっさに手を伸ばし、ラスヴァンの裾をつかんでしまった。 「ま、待って……」 (言えない。言いたい。でも、怖い……でも……) 「ぇ……えっと……“好きって気持ち”って、ラスヴァンは、どう思う……?」  声が震えていた。自分でも予想していなかった問いが口から出ていた。  ラスヴァンは一瞬驚いたように目を見開き、足を止めた。  月明かりだけの部屋に、ジェイスの鼓動だけが響いている気がした。 「……誰の話だ?」  低く、静かな声。  ジェイスは答えられず、耳まで赤く染め、裾をつかんだままうつむいた。  その沈黙が、すべてを物語っていた。 「……俺は」  ラスヴァンがゆっくりとしゃがみこみ、ジェイスと視線を合わせる。 「“好き”って気持ちは、大事にしたいと思う。……安く扱いたくない」  ジェイスはその言葉に、そっと目を見開く。 「簡単に言ったら壊れそうで……でも、言わなきゃ伝わらない。……難しい、よな」  ジェイスはうなずいた。喉が渇いて、言葉が出ない。 「ジェイスは……誰か、好きになったことあるか?」  しばらく考えたあと、ジェイスはぽつりと答えた。 「……わかんない。今まで、そんなの考えたことなかった。わかんないままだった」  でも、と続ける。 「最近は、ずっと考えてる。その人のことばっかりで……///」  顔が熱い。赤くなってるのが自分でもわかる。 「そばにいると嬉しいのに、心臓がバクバクして……なんか、怖くて。でも、あったかくて……」  そして、ぽつりと。 「……初めて、好きになったのかもしれない……」  その瞬間、ラスヴァンの瞳が揺れ、そっと息を吐いた。 「……そうか」  それだけ言って、ジェイスの頭に手を伸ばしかけたが――触れずに、下ろした。  ジェイスはそれに気づいていた。  あの、優しい手が、自分に触れなかった。 (……どうして?)  なにも聞かず、なにも言えなかった。 「無理すんな……おやすみ」  低い声が静かに落ちて、やがて足音が遠ざかっていく。  ジェイスは布団をかぶって、背中を丸めた。  胸が苦しくて、痛かった。 (……もしかして、ラスヴァンにも好きな人が、いるのかな……?)  胸が今度はドクンッと、違う嫌な音をたてる。  静かな夜が、ゆっくりと過ぎていく。  ただの、一方通行の夜。 ―――  綺麗な空の下。  ミハイルとラスヴァンが湖で泳ぐところを、ジェイスは木陰に座って見ていた。  ラスヴァンが湖で泳いでいたのは、すぐにばれた。髪が半濡れのまま帰ってきたからだ。  そのあと、ジェイスも心配しながら一緒についていった。  自分も泳ぎたかったが、ミハイルやラスヴァンのように裸になるのは恥ずかしくて、水着もなかったため、涼しい木陰で我慢していた。 「なんでみんな裸になれるんだろ、オレが変なのかな……」 (……ほんとうに、ラスヴァンの傷、治ってきたんだぁ)  逞しい褐色肌の人物を無意識に追いかけて見つめていた自分に、ハッとする。 (……ふぅ……なんか、いつも通りいかないな……  いつか、傷が治ったら、ラスヴァンはどうするんだろう……また旅に出るのかな……)  胸がチクリとして、思わず下を向く。  と、気の根っこの近くに、木箱があるのを見つける。 「……な、にこれ?」  木箱を開けると、ムワンッとなんとも言えない男臭い匂いがした。 「あ……ああ! 二人の服か、ぐちゃぐちゃに入ってるから何かと思った!」  と言いながら、いつも洗濯物をやっている要領で、テキパキと服を取り出して畳み始める。 「ん〜……やっぱり二人とも、オレよりデカいなぁ」  つい自分の身体に、ラスヴァンのTシャツをあててみる。ぶかっとしていて、一回りは大きい。  そして、ラスヴァンの香りがしてくる。掴んだまま、正座している膝に置き、大切に畳む。 「ラスヴァンの下着、カッコイイなぁ……」  次に取り出したのは、黒のシンプルな伸縮性のあるショート丈の下着だった。  常に白ブリーフなジェイスには、とてもカッコイイ、光輝く憧れの下着に見えた。 「あ……でも、穴空いてる……縫ってみようかな……」  ジェイスは、穴があいている部分を近くで見てみる。 「でも、履きにくくなるかな……新しいの買いに行こうって、町に誘ってみようかな///」  ラスヴァンの下着の穴がよく見えるように、ジェイスは腕を伸ばして太陽にかざした。  ――湖側では、岸で百面相していたラスヴァンが、ジェイスの異変に気づく。 「……俺の下着が、日光に晒されてる……」 「んー、虫干しだろ」 「下着単体で?」  ジェイスの奇行に、ラスヴァンは不思議そうな顔をして、立ち泳ぎしながら見つめる。  一方そのころ、岸側のジェイスは気づいていない。  下着からラスヴァンの強い香りがしてきて、ふらりと鼻に近づけそうになった。 「それはダメだ!! 人としてダメだろっ///」  勢いづいて、草の上にラスヴァンの下着を叩きつける。  湖の方では―― 「おい、俺の下着、叩きつけられたんだが!?」 「んー、臭かったんだろー」  森のクマのように水に身体を預けて浮いていたミハイルは、どこ吹く風である。 ――― 「…穴か……長く穿いてたからな」 (なんで叩きつけたんだ?)  異変を心配したラスヴァンは、泉から素早くクロールで戻ってきて、ジェイスの横にあぐらをかいて座った。 「……それ、隠してください///」  ジェイスは正座し、手のひらで目を隠しながら、真っ赤な顔で蚊の鳴くような声を出す。 「ん?……ああ……」  少し履きにくそうに下着を穿き、ラスヴァンは股間を隠した。 「……明日買いに行くか。売りたい物もあるしな……」  その言葉に、ジェイスは飛びつく。 「オ、オレも!! 一緒に行っていい!!?」  馬鹿でかい声で申し出たジェイスに、ラスヴァンは一瞬驚いたが―― 「……退屈だぞ?」  優しく微笑んで答える。 「う、ううん! オ、オレも買うものあるし、町はひしゃしぶりだひ///」  嬉しさと興奮のあまり噛んでしまい、ジェイスは恥ずかしくて真っ赤になった。 「そうか……じゃあ、近々行くか?」 「うん! うん!」  ほんわかとした空気が流れ、その後二人は他愛もない会話を楽しんで過ごした。  一方、湖の真ん中にぷかりと浮いている、森のクマのようなミハイルは―― 「はあ〜、なんとも焦ったい二人だな」  と、若いふたりの恋の行方を、遠くから静かに見守っていた。

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