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【過去編】 13.黒い木の店
「悪い……ジェイスは来ないでくれ」
朝早く、ラスヴァンはジェイスの家の前に立っていた。
ミハイルに、馬に乗れるようになるための、教えを受ける日だった。
その言葉を聞いたジェイスは、ぽかんと目を見開いた。
当然のように、ラスヴァンの隣に並ぼうとしていたからだ。
「え……なんで?」
「今日は……一人で行きたい」
ジェイスの足が止まる。
「いつも一緒に行ってるのに……」
迎えに来たミハイルが、少しバツが悪そうに笑った。
「……馬に乗れないカッコ悪いとこを、ジェイスには見せたくないんだろ」
「そんなの、気にしないのに……っ」
ジェイスは小さな声で呟いたが、ラスヴァンは目を合わせようとしなかった。
代わりに、背を向けて馬の方へ向かう。
「じゃあ、行ってくる」
──ぱたん。
家の扉が閉まる音が、ジェイスの胸にひどく響いた。
―――
ラスヴァンはというと──
ジェイスと離れていて平気かというと、全然そんなことはなかった。
拙いジェイスの似顔絵を描いて、ミハイルの家に勝手に飾ったり。
馬に舐められて顔がべちょべちょになっても、ぼんやりとジェイス似の雲を見ていた。
馬に乗れるようになるには時間がかかる、とミハイルは言っていた。
けれど、かつてヴォルクで馬車を盗んで逃げた経験や、野良馬と遊んでいた記憶があるせいか──
ラスヴァンは驚くほど早く馬に慣れていった。
そして彼は思っていた。
今のうちに、できるだけ金を稼がなければ──と。
王都に行くための旅費。
そして、この場所での生活費。
ラスヴァンは、リーヴェルに永住しようと決めていた。
ジェイスとの関係が、ようやく穏やかで、あたたかいものになってきた今。
もう、離れたくなかった。
小さくてもいいから家を持ち、仕事を見つけ、いつかジェイスに気持ちを伝えて、一緒に暮らしたい。
たとえジェイスにとってそれが恋じゃなくても、そばにいたかった。
とにかく、ジェイスにはカッコ悪いところを見せたくなかった。
この短い期間だけでも、一緒に行動しないことで、稼ぐ時間をつくりたかった。
昼間は馬に乗る練習をして、
夕方になるとヴォルク方面の山近くまで出向き、ミハイルに借りた猫車で鉱石を集め、鍛冶屋に売りに行った。
ミハイルは、その様子を見てため息をついた。
「この鉱山まで行ったのか……命知らずな奴だ。もうちょっと、自分を労わるってことを覚えたほうがいいな……」
―――
そんな日々を続けるうちに、
ラスヴァンは朝早く出て夜遅く帰る生活になり、ジェイスの顔を見ることもあまりなくなっていた。
綺麗なサラサラの金髪。
俺を見る、あの優しい目。
抱きしめた時の、ふにっとしたあたたかさ──
「……やっぱ、ジェイスに会いてぇな……
でも、今は我慢しねえと。少しでも長く一緒にいると、離れたくなくなっちまうから……」
ラスヴァンは、自分で決めていた。
ある程度、金が貯まるまでは、ジェイスにあまり会わないと。
……でも。
「ラスヴァン、大丈夫?」
ある日、ラスヴァンは食事をしてすぐ寝ようとしていたが、パンを噛みながらそのまま眠ってしまった。
それほど疲れていた。
ラスヴァンが寝た後。
あたたかい緑色の光が、そっとラスヴァンを包んだ。
静かでやさしい癒しの光。
けれど──ラスヴァンは、それに気づいていなかった。
―――
ある日、いつものように木こり小屋を通り過ぎ、鉱山へ向かっていた。
途中、流れの早い川に無造作に架けられた丸太の橋を渡ろうとしたとき――
その橋のたもとで、年配の男がパンツ一枚で倒れていた。体はびしょ濡れで、どうやら川に落ちたらしい。
(……溺れたのか?)
(ま、俺には関係ねえ)
そう思って、丸太に足をかけたそのとき。
『ラスヴァン、人を助けてあげるなんてすごいね、カッコイイ』
――頭の中で、ジェイスの声が聞こえた。
(……っ仕方ねえな)
やれやれと、男に近づいてしゃがみこむ。首筋に指を当てて、呼吸と脈を確認する。……まだ生きてる。
「おい、ジジイ、ジジイ! ジジイーッ!!」
思わず3回呼ぶ。
すると男は、パチクリと目を開けた。
「おじさんと……いいな、さぃ……」
そう呟いたかと思うと、また目を閉じて気を失った。
―――
とりあえず、ミハイルの木こり小屋に男を放り込んだラスヴァンは、さっさと去ろうとした。
だが――
「…………!」
Tシャツの裾を、びよーんと引っ張られた。
伸びるだけ伸びて、離してくれない。
「……は?」
ラスヴァンが振り返ると、パンツ一枚の年配の男が、床に寝転んだまま手を伸ばしていた。
「丸太の橋は、渡りづらかった……。橋がなかった頃に比べたら、便利にはなったけどね。ぐらぐらするし、老人や、僕のような中年には、ちょっときつかったね」
「……つまり、途中で落ちたと」
「…………そう。水を含んだ重たい服を脱いで、必死に岸まで泳いだんだよ」
そのとき、ミハイルがバツの悪そうな顔で現れた。大きな体を小さくして、申し訳なさそうに頭を下げる。
「……悪かった。あの橋は、俺が置いたんだ」
「いやいや、ミハイルさんが悪いわけでは」
おじさんは慌ててかしこまって否定した。
ラスヴァンは、退屈そうにその場を見守りながらも、頭の中では、ジェイスを優しく抱きしめて裸にする妄想に耽っていた。
「……そうそう、君には助けてもらったお礼をしないとね」
おじさんはのんびりとした調子で続ける。
ラスヴァンはうんざりした顔で答えた。
「いらん」
ぶっきらぼうにそう言い捨てると、さっさと小屋を出ようとした。
だが、おじさんは負けじと食らいついてくる。
「悪い話じゃないと思うんだ。ミハイルさんに聞いたよ。君はお金を貯めるために頑張っているそうじゃないか。でも、この町で仕事を見つけるのは、難しいだろう?」
リーヴェルは、赤ちゃんが二人だけ生まれて、あとは三十三歳から百六歳までの大人ばかりが住む、ちょっと変わった田舎町だった。
唯一の例外が、十八歳のジェイスだった。彼はこの町で生まれ育った、ただひとりの若者だった。
若者のほとんどは王都へ引っ越し、出生率も低い。そのため、年老いて仕事をしていない者も多く、雇用先は極端に限られていた。
「……」
ラスヴァンは何も言わなかった。
だが、それが図星だったのも事実。町で求人を探したが、見つからずに悩んでいたのだ。
「沈黙は肯定と取らせてもらうよ。……君さえ良ければ、僕の店をもらってほしいんだ」
「……はあ?」
―――
黒い木の小さな店が、町の一番端にぽつんと建っていた。
看板には『アンティーク風雑貨店』の文字。ラスヴァンはその前で足を止めた。
「アンティーク風……?」
声に出して読んだ彼に、おじさんが答える。
「うん、雑貨屋なんだけどね。新品ばかりじゃなくて、自分でまだ使えそうなものを見つけて補修して、また誰かの手に渡せるようにしてるんだ。たまに道具屋の代わりもしてるけどね」
その言葉が、ラスヴァンの胸に静かに沁みた。
──ヴォルクから再び歩き出した自分と、手直しされて蘇った品々。
なにかが重なる気がした。
彼は店の中を見渡し、そして外観を見上げる。
ゴクリと唾を飲み込み、ふと呟く。
「……本当にいいのか? こんな立派な店」
おじさんは優しく微笑んだ。
「うん。僕はもう腰が痛くてね。最近は店番もつらい。そろそろ閉めようかと思ってたんだ。
だから、君みたいな立派な青年が引き継いでくれたら、とても嬉しいよ」
ラスヴァンは、不意に目頭が熱くなった。
こみ上げるものを必死に押し込め、鼻をすすってから、おじさんの前に両手を差し出す。
「……ありがとう、ございます」
「うん。こちらこそ、ありがとうございます!」
二人はしっかりと握手を交わした。
──その後、ミハイルの木こり小屋を訪れ、店の譲渡に関する書類を確認してもらった。
「うん、大丈夫だ。あの人は元から親切で、信用できる人だ……いい縁にあったな」
そう言われ、ラスヴァンは嬉しくて飛び上がりそうな気持ちで家へと戻った。この話をジェイスに聞いてほしくて仕方なかった。
けれど――
ジェイスはもう、寝てしまっていた。
次の朝、話そうと早く起きたものの、テーブルに置かれていたのは、朝食と一枚のメモだけ。
『花畑に花を取りに行くので、早く家を出ます』
最近、二人の生活は、すれ違いがちになっていた。
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