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皇太子の結婚 4
夜明けの光が石壁を優しく温めた。
隣には静かな寝息を立てる皇太子の姿。
その寝顔を見つめると、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
――愛してしまった。
自覚してしまった心に、甘やかな幸福と、耐えがたい自己嫌悪が同時に沸き上がる。
胸を灼くような熱と底冷えする虚しさが交互に押し寄せた。
冷たい床に膝を折り、手を組む。
「……なぜ、俺なんだ」
祈るたび、懺悔のように罪の意識が深く沈んでいく。
朝日が白々と王宮を照らした。
◇
「着替えたら執務室へ来てくれ」
目覚めたカシアンはキリエルを抱きしめると、口づけを一つ落として部屋を出た。
触れられた場所が熱を持ち、心がかき乱される。
入れ替わるように、侍従と神官たちが祭衣を運び込む。
昨夜の温もりを引きずる体は、誰かに触れられることすら苦しかった。
宰相の目が、薄衣の隙間から覗く昨夜の痕跡に留まった。
「……殿下の御心を、どうかおいたわりくださいませ」
やわらかな言葉の奥に潜む棘が、胸を刺した。
「婚姻の儀では、祭壇の前で祝詞を歌っていただきます。通常、民衆の前でも歌っていただきますが……当代では行いません。」
神官の説明に、キリエルは自嘲して答える。
「……ありがたいな。誰も、男の聖女なんて望んじゃいない」
◇
支度を済ませ、執務室で再びカシアンと対面する。
赤い髪は几帳面に撫でつけられ、金の刺繍が施された緋色のベルベットには、いくつもの宝石が縫い付けられている。
正装に身を包んだその姿は、王冠を戴かずとも、すでに王のような風格が漂っていた。
その凛々しさは痛いほど眩しく、己の卑しさが際立っているようで居心地が悪かった。
件の祭衣を身にまとったキリエルを、穏やかな瞳が静かに見つめる。
純白の薄衣には銀糸の装飾が織り込まれ、幾重にも重なった裾は長く伸び、ミルクのようになめらかに床へ落ちている。
普段は無造作に束ねている後ろ髪は丁寧に梳かれ、白銀の頸飾とともに首筋の情痕を隠している。
「よく似合う」
「皮肉か?」
ルミエルのほうが似合う、そう言いかけ、息が詰まった。
「昨夜のことは、後悔していない」
カシアンの声は揺らぎがなかった。
キリエルは顔を背ける。
「俺は聖女であり……婚姻は国のための務めだ」
冷たく言い放ちながらも、瞳の奥では、昨夜の熱を隠しきれなかった。
◇
礼拝堂の扉が開く。
白大理石の柱が連なる荘厳な空間は、かつてルミエルが祈りを捧げていた場所。
陽光を映すステンドグラスが虹色に揺れ、静謐を覆っていた。
群衆のざわめきが遠くで波打つ中、二人は真っすぐに進む。
祭壇を囲う人々の中に、妹の姿があった。
(……俺が、ルミエルの未来を奪った)
胸が裂かれるような痛みが走る。
そのとき、隣から低い囁きが落ちた。
「俺の隣には、お前しかいない」
熱のこもった声に、足がふらつきそうになる。
二人は祭壇の前に跪き、祈りを捧げた。
◇
祝詞が冷たく、かすれた声で紡がれる。
切なさを孕んだ調べは、やがてざわめきを鎮めていった。
「――“サラが幸せに生きられますように”」
低い声がこぼれた瞬間、参列者たちは息を呑んだ。
サラとは神話に伝わる“最も大切な人”を指す言葉。
キリエルの脳裏には、忌まわし気な顔をした人々が浮かぶ。
自分が傷つけ、台無しにしたことへの贖罪と祈り。
――この国が、民が、幸せに生きられますように。
その響きは、とても真摯に、そして悲し気に神聖な間を満たした。
天窓からまばゆい光が差し込み、銀糸の祭衣をきらめかせる。
その瞬間、空気が震え、圧倒的な気配が降りた。
――女神が、キリエルの身に宿ったのだ。
炎のような熱が、胸の奥から全身へ駆け上がった。
額に刻まれた印が赤く脈打ち、じわりと広がっていく。
黄金の瞳が光を帯び、焦点を失った眼差しは超常の気配を纏った。
閉め切られた空間に風が吹き、純白の祭衣の裾がふわりと舞う。
銀糸は陽光を返し、まるで燦然と星を散らすようだった。
キリエルの喉から洩れる声に、重ねてもう一つ、深い音階が響いた。人と神、二つの声がひとつに絡み合う。
――女神の声だ。
「新しき聖女の誕生を祝せよ」
重層的な声は、石壁を震わせて大伽藍全体に染み渡る。
瞬間、抑えきれない歓声があがった。
「聖女様万歳!」
「女神の御業だ!」
「エルトゥメリア様!」
神官たちは涙を流し、震えながら跪いた。
信仰に篤い一部の貴族たちは、熱に浮かされたように叫び、両手を高く掲げる。
「……まさか、本当にあいつが女神を宿すとは」
貴族席の最前列に坐したヴァルデリオ家当主――キリエルの父、ヘンク・ヴァルデリオは苦々し気に唇を噛む。肉のついた指がわなわなと震えた。
「父上、それではもう、ルゥは……ルミエルは聖女になれないのでしょうか」
ヴァルデリオ家次男のセオドル・ヴァルデリオは青ざめた顔で父に問う。
家族にとってルミエルは希望の末娘。生まれたその日から、彼女のために全てを用意してきた一家には、受け入れがたい出来事だった。
ルミエルは涙に濡れた瞳で、女神を宿す兄を見つめる。
家族の爪弾き者だった兄キリエル。
国中から愛され、全てを手に入れた自分だからこそ、兄を“使ってあげられる”と信じていた。それなのに、なんて酷い仕打ちなんだ。
ルミエルの可憐な唇が歪に曲がる。
海色の瞳には憎悪の渦が浮かんだ。
「……あぁ、いいな。美しいじゃないか」
悲嘆にくれる公爵家の中で、一人微笑む眉目秀麗な男――長男ダリオ・ヴァルデリオ。
公爵家を表す青い髪、青い瞳を持ち、透き通るような白い肌はまるで温度を感じさせない。
冷たい笑みを隠すように、皮手袋をした右手で顎を撫でる。
思案に沈む眼差しは、神々しく君臨する聖女たる弟に注がれていた。
やがて、声が再び降り注ぐ。
「日は輝き、麦は実り、葡萄は甘く熟すだろう」
一音ごとに唇がゆったりと動き、皆が息を飲んで注視する。
女神は言葉を切ると、優雅に微笑む。
豊穣の祝福に、人々は歓喜に震えた。
しかしその直後、声の調べは冷たい余韻を含んだ。
「だが……黒き旗は東に燃える。星を失い、夜空を裂く叫びが響く」
ざわめきが走った。
誰もが一瞬顔を見合わせ、意味を測りかねた。
降臨した女神は、祝福のほかに天災や戦乱の予兆を告げることがある。
詩的で断片的な言葉は、解釈を人間に委ねていた。
歓喜と畏怖が渦を巻く。
女神はただ、その熱狂を愉しむかのように沈黙した。
光を放つ瞳は、人間の悲喜こもごもを甘露のように味わう。
その横顔を、皇太子カシアンは険しい顔で見据えていた。
肌に伝わる熱気に圧倒されながら、別人のような顔をしたキリエルをただひたすら案じている。
国を豊かにするため、女神エルトゥメリアの存在は必要不可欠である一方、最愛の男を摩耗させることはしたくなかった。
必ず守ると誓った。決意の炎が赤い瞳に宿る。
光が収まり、祭衣の揺れが静まる。
黄金の瞳がゆっくりと閉ざされ――次の瞬間、糸が切れた人形のようにキリエルは崩れ落ちた。
「聖女様!」
神官の叫びとともに人々がどよめく。
だがカシアンがすぐに抱き止め、鋭く命じた。
「婚姻の儀は終わった!道を開けろ!」
キリエルの体は熱を持ち、吹き出した汗が祭衣を透かす。
苦し気に息を吐く姿を、集まる人々が食い入るように見ていた。
ぼやけた視界には、丸天井の色鮮やかなタイルや天窓のステンドグラスが映り、まるで万華鏡のように回っている。
降り注がれる日光は、あの女神の眼差しなのだろうか。
熱狂と不安の声が反響する中、意識を空中で投げ出した。
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