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聖女の価値 1

 重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。  視界は白く霞み、しばらく何が起こったのか思い出せなかった。  目の奥にはまだ火種のような熱が残っている。  祭衣は汗で肌に貼りつき、重さを増した布が呼吸を邪魔していた。  焦点がゆっくりと定まる。  天井には植物のつるや葉、花を模した装飾が施されていた。  今朝まで過ごしていた簡素な小部屋ではない。  「……聖女様」  低く湿った声が耳に届く。気づけば、数人の神官たちに取り囲まれていた。  「お体をお清めいたします。どうか動かれませんよう」  袖を広げられ、冷たい手が衣の結び目を解いていく。  するりと肩から落ちる布の感触に、思わず背筋が震えた。  濡れた肌が露出し、冷気を感じる。  「やめろ……」  か細い声は、すぐに掻き消された。  「御身は女神の器。お穢れを残すわけには参りません」  涼やかに言いながら、濡れ布で褐色の肌を拭われる。  敬虔な瞳の奥には、人形のように横たわる自分の体が映る。  胸板を丁寧に撫で、脇腹を流れる汗を拭い去り、香油の匂いが立ちのぼる。  羞恥に頬が熱くなり、呼吸が詰まる。  だが、女神を宿したあとの疲労で、抵抗する力はどこにもなかった。  されるがまま、体はただ“器”として磨かれていく。  「……歴史的にも、代替わり後のこれほど早いご降臨は前代未聞」  「女神様の御心は、この国を強くお導きくださるに違いない」  神官たちの囁きは恍惚とした熱に満ちていた。  やがて高位の神官が進み出る。  「聖女の純潔と安寧は、我ら教会が守護いたします。以後、日常の一切を我らが監督いたします」  「待て」  すぐさま遮ったのは、カシアンだった。  照明の光を受け、纏った金の装飾が瞬く。  行く手を阻む若い神官たちを押しのけ、大股で部屋へ踏み入る。  鋭い眼差しで彼らを見据え、声を低く響かせる。  「聖女を守るのは俺の役目だ」  「殿下のお心遣いには感謝いたします。しかし聖女様は、国の柱。民の信仰の象徴にございます。我々が手厚い看護をさせていただきます」  言葉は丁寧でも、退ける力は揺るぎない。  「……警備は俺から手配しよう。部屋の中に常駐させる。国の柱、だからな」  緊迫した空気が部屋に沈黙を落とす。  キリエルは唇を噛む。  羞恥と無力感が胸を焼き、――己の意思はどこにもないのだと突きつけられた。  ◇  「新たに聖女様のお世話を任ぜられました。ベレオンと申します」  翌日。  まだ寝台から起き上がることができないでいるキリエルの前に、短い栗毛を撫でつけ、柔らかく笑みを浮かべた青年が立っていた。  長身で、振る舞いは洗練されている。その笑顔は、屈託のない無邪気さを放っていた。  「どうか、なんでもお頼りください。聖女様のためなら、僕は何だっていたします」  爽やかな声が耳に響く。  大げさな言葉と裏腹に、瞳の奥は精緻な光が鋭く光る。  「まずは朝餉をお持ちします。起き上がれますか?」  まだ力の入らない腕で体を起こそうとするが、背中がわずかに浮くだけだった。  「ああ、ご無理はなさらないでください。大事な御身ですから」  温かな手のひらが背中に差し込まれ、丁寧に寝かされる。  乱れた寝巻やシーツを整え、天蓋の布を引いて朝日を遮る。  キリエルは言葉を返せず、ただ戸惑う。  昨日の神官たちの冷たい手つきとは違う。だが、この過剰な献身もまた、落ち着かない。  背後で控えていた神官が補足する。  「聖女様は教会の監督下にございます。世話はすべて、彼を通して行われます」  カキン、と金属的な音が言葉を阻む。  目線をやると、近衛騎士が不満げに佇んでいる。カシアンの指示だろう。  甲冑が微かに軋む音が、押し殺した苛立ちを物語っていた。  「……」  苦々しい表情でそのやり取りを睨むキリエル。  「ご安心を」とベレオンは人懐っこい笑みを向け、柔らかに受け流した。  (俺の意思は、どこにある……)  お姫様のように扱われたって、外見が変わる訳でもない。  傷だらけの男をどうしたってコイツらはかごの鳥にしたがるのか、薄気味が悪かった。  ◇  夜。  キリエルは眠りにつけず、寝台から這い出るようにして、窓辺に膝を折った。  「女神よ……俺に、どうして――」  必死に祈るも、額のあざが痛み言葉は途切れる。  「……聖女様」  振り返ると、水差しを持ったベレオンが扉の前に立っていた。  夜の影に隠れた瞳が、かすかな灯に照らされている。  「お体はもう大丈夫ですか?」  騎士見習い(ペイジ)のころ、慕ってくれた後輩の記憶がよみがえる。  真っ直ぐで、無邪気に好いてくれる少年――。ベレオンの人懐っこい笑みが、その面影を重ねさせた。  「眠れませんか」  祈りの姿に見惚れていたのか、声は微かに熱を帯びている。  「ご安心ください。聖女様の夜は、僕がずっと見守っていますから」  言葉は甘く、静かな執着を孕んでいた。  重く軋む音とともに、扉が開く。  「……まだ起きていたのか」  現れたのはカシアンだった。  ようやく政務を終えたところなのだろう、目の下の隈が濃く落ちている。  部屋に常駐していた近衛騎士が素早く敬礼の姿勢をとる。  室内に一瞬、張り詰めた空気が走った。  ベレオンは恭しく頭を下げたが、笑みを絶やさない。  「殿下。聖女様はお疲れで、眠りにつけずにおられました」  栗毛を鋭く見下ろし、高圧的に声をかける。  「……お前が聖女付きの神官か。あとは俺がやろう、下がれ」  ベレオンは頭を垂れたまましばし黙り込むが、再び爽やかに微笑みながら顔を上げる。  「……仰せの通りに、殿下」  悠然と扉へ向かいながら、子犬のようにしょぼくれた目線をキリエルに送る。  どうせ明日もまた来るくせに、と呆れながらも、片眉を上げて応じる。  扉が重々しく閉まると、熱い手のひらがいきなり腰を掴む。  「随分親しげだな。以前からの知り合いか?」  嫉妬の炎がちらちらと瞳の奥で揺れる。    「……ちがう。ただ、ペイジの頃の後輩に似ていて」  「妬けるな。もう俺の妻となったろう」  首筋に鼻を寄せられ、汗のにおいを嗅がれる。  顔に熱が集まり、肌が淡く痺れる。  「おい、やめろ。……あいつも気まずいだろ」  部屋の隅で小さくなっていた近衛騎士を指さし、胸を押し返す。  カシアンが顎で指示を出すと、軋む甲冑は部屋の外へと出ていった。    皺の寄った寝台まで腰を抱かれ運ばれる。  体が痛いと文句を言えば、そっと後ろから包むように抱き込まれた。  「ここで寝る気か」  「夫婦だろう」  仮初の呼び名を鼻で笑う。  隣に縛り付けるために、勝手に決めたことじゃないか。  「……しばらく顔を出せないかもしれない」  絞り出すように低く吐き出された言葉に、苛立ちが隠せない。  この閉ざされた部屋の外では、欲深い思惑がひしめき合っている。  それらをこの男が防いでいて、相当の苦労をしていることは想像に難くない。  「だからなんだ」  しかし腕の中でキリエルは、胸の奥を苦く締めつけられた。  (俺はいつから、誰かの所有物になったんだ)  剣も握れず、声も届かず、祈りすら俺のものではない――。  窓辺に残る冷たい月光が、ただ静かに彼らを照らしていた。

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