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聖女の価値 2

 目を覚ますと赤い影は消え、寝台の脇にはすでにベレオンが控えていた。  栗毛を整えた若い神官は、銀盆に湯と白布を載せ、穏やかに微笑む。  「おはようございます、聖女様。お体の調子はいかがですか」  近衛騎士が壁際に直立している。甲冑の軋む音が、朝の静けさに不自然に響く。  「……もう自分でできる」  手を伸ばすが、ベレオンはやんわりと押し返す。  「いいえ、どうかお任せください。聖女様のお手は、祈りのために空けておいていただきたいのです」  柔らかな声音に抗えず、結局はすべて彼の手に委ねられる。  冷たい布で頬を拭われるたび、子供(ペイジ)の記憶が胸を焼いた。  広い訓練場を走り、井戸水を頭から被って汗を流していたあの頃が。  朝餉のあと、窓辺に立ち祈りを捧げた。  日差しが優しく体を照らす。太陽の女神は、今日も平等に恵みをもたらす。  体力が戻れば、あの豪奢な祈りの間で毎朝の祈りを捧げることになるらしい。  この簡素な祈りの場と何が変わるのだろう。  ふと視線を感じて振り返れば、ベレオンが食い入るようにこちらを凝視していた。  「……美しいです」  赤紫の瞳がすがるように揺れた。  「どうか……僕のために祈っていただけませんか」  キリエルは呆れたように顔を背ける。  「……祈りは、国と民のためのものだろ」  突き放す声に、一瞬の沈黙。だがベレオンは柔らかな笑みを崩さなかった。  「ええ、もちろんです」  肩をすくませ答える声の奥に、聞きとれぬ執念が潜んでいた。  ◇  その日の昼下がり、使者が現れる。  「殿下は政務にて数日お顔を見せられぬとのこと。聖女様は安静にお過ごしを、との伝言です」  報告を聞いた近衛騎士の肩が重く沈む。  カシアンの不在は、この部屋をいっそう閉ざされた檻に変えるのだと、誰もが理解していた。  「ご安心を」  ベレオンがすぐ傍らに身を寄せ、囁く。  「殿下に代わり、僕がずっとお仕えいたします。聖女様は決してお一人にはなりません」  その声音は真摯な響きを含みながらも、譲らない迫力を感じさせた。  しばらくすると、中年の神官が恭しく入室する。  「ヴァルデリオ公爵家より、聖女様に面会をとの申し入れが届いております」  丁重に差し出された書状には父の公印が刻まれている。  ――怖い。  かつては必死に居場所を求めた"我が家"。今はまるで叱られる前の子供のように、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。  廊下の冷気、扉の向こうの父の声……あの頃の記憶がキリエルを苛む。  震える指で書状を受け取り、内容に目を通す。  「明日、王宮の客間をご用意いたします。窓から見えるバラ園が見頃でございます」  へこへこと頭を下げながら神官が場を辞すると、キリエルは書状を丸めて床に放った。  近衛騎士が不穏な眼差しを送る。不敬だと咎められるのは承知のことだ。  気分が落ち着かず、唇を噛む。  拒む権利など与えられていないことを知りつつも、頭の中で警鐘が鳴っている。  父の叱責、ルミエルの涙、兄たちの拒絶。  脳裏に浮かぶ光景が胸を締め付ける。  ベレオンのスミレ色の瞳が横顔を見つめる。  「……お傍におります、聖女様」  その柔らかな笑みに寄りかかることができたら、楽になるのかもしれない。  キリエルはそっと警戒心を解き始めていた。  ◇  近衛騎士が入室する。交代の時間が来たようだ。  窓の外には三日月が輝く。風のない夜だった。  寝る前に、キリエルは窓辺に膝を折り、静かに祈りを捧げる。  月光が額を照らし、十字のあざを青白く浮かび上がらせる。  その姿を、寝台の影からベレオンが食い入るように見つめる。  呼吸を忘れたように目を見張り、赤紫の瞳を潤ませた。  (なんと……神々しい……)  唇が震え、胸の奥で熱が膨れ上がる。  恵まれない身の上ながら利他の心を持ち、懸命に祈る姿。  彼こそが理想の聖女なのだと、出会えた奇跡を女神に感謝した。    月明りが褐色の肌を淡く照らし、滑らかな光沢が筋肉を滑る。  訓練の中で負ったであろう傷さえも、女神の創った芸術のように思え、その美しさに心を奪われる。  鍛え上げた肉体を折り、女神に乞い願う姿はあまりに哀れで官能的だった。  祈りの声は国と民のためのもの――だが今は、自分だけを向いてほしい。  背徳的な願いが腹の奥から湧き上がってくる。  清拭のたびに触れる、あのしっとりとした肌を余すところなく撫で、哀れな瞳から零れる涙を舐め取り、救いの言葉を囁きたい。  掠れる祈りの声を自分だけに聴かせてほしい。    甲冑の軋む音が、不意に彼を現実へ引き戻す。近衛騎士は変わらず壁際で直立している。  ベレオンは慌てて顔を伏せ、祈りに同調するふりをした。  しかし月明りの届かない陰の中で、ベレオンの欲に濡れた瞳が輝く。  握りしめた拳は震え、胸の鼓動は収まらなかった。  ◇  翌日、王宮の客間へ向かう。  磨かれた窓からは、爛漫と咲いたバラが一望できる。  だがキリエルの視線は一度も外へ向かなかった。  全身が鉛のように重い。  着せられた白銀の礼服が拘束具のように窮屈だった。  神官のべレオンが寄り添うようにして隣を歩く。  「ご家族はさぞお喜びのことでしょう。当代も公爵家から聖女を輩出し、すでに女神様をお宿しになったんですから」  スミレ色の瞳を細めて誇らしげに笑う。  返答に詰まり、口を閉ざす。  (……俺じゃなくて、妹だったら、な)  大きな扉を鬱々とした気持ちで開け、歩みを進める。この先に待つ処刑台に向かって。  豪華な調度品が飾られた客間には、毛足の長い緋色の絨毯が敷かれていた。  バラ園に面した大きな窓を覆うようにカーテンが引かれ、空気が冷えている。  低いソファにはクッションが置かれ、公爵、長男、次男、そして妹が腰を下ろしている。  父はのっそりと立ち上がると、平坦な声色で定型文を読み上げた。  「……聖女様、この度はご婚姻ならびに女神様をお宿しになったこと、心よりお慶び申し上げます」  ぎこちなく一礼され、心臓が嫌な音を立てる。  「……父上、人払いをいたします。どうか、その様なことはなさらないでください」  非難の視線に耐えきれず、キリエルは下を向く。昔からの癖だった。  父は聖女となる娘を欲するも、生まれた二人の子供は男だった。  そんな折、侍女として働いていたキリエルの母に手を出し、孕ませた。  母の目は、黄みを帯びた茶色であり、聖女の瞳の色のようにも思えたから。  しかし生まれたのはまたしても男――それがキリエルだった。  父の責めるような目に、いつも怯えて生きてきた。  いらない子だと言われたことはない。しかし、思っているに違いない。  せめて捨てられないようにと足掻いてきたのだ。  公爵の冷ややかな一瞥に、近衛騎士は直ちに場を辞する。  ベレオンは気遣わしげな口調で問うた。  「聖女様、いかがいたしましょう」  「……家族、水入らずで話したい。外で待っていてくれ」    口ごもりながらも、指示を出す。  家族水いらず。言い慣れない言葉が口の中で転がる。  次男の冷笑が耳に届き、羞恥で顔が熱くなる。  「……仰せの通りに。お部屋のすぐ外でお待ちしておりますね」  柔らかい音が心を撫でる。  ベレオンは丁重に一礼すると、部屋の外へと歩く。  扉が閉まる瞬間、赤紫の瞳に鋭く光った。  ただ一人、静かに笑う男だけがその異変に気づいた。

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