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聖女の価値 3 ※

 扉が閉じると同時に、空気は凍りついた。  さきほどまで取り繕っていた仮面の微笑みさえ、誰の顔からも消えている。  父――ヴァルデリオ公爵は、椅子に腰を深く沈め、鋭い眼差しを突き刺した。  「面汚しめ」  掠れた低音が室内に響く。  隣に座る次男のセオドルがすかさず言葉を継ぐ。  「家名を貶める犬が女神に選ばれたなど、馬鹿馬鹿しい」  細い唇を吊り上げ、冷笑を浮かべる。その目には露骨な軽蔑が宿っていた。  「……キリエル……お兄様」  震えるルミエルの声が落ちる。  絹のハンカチで頬を押さえながら、青い瞳から涙をこぼす。  「どうしてあなたが……選ばれたの。私がその役を果たすはずだったのに、ずっと……そう信じてきたのに……!裏切者……!」  泣き声には怨嗟が混じり、キリエルを責め立てる。  セオドルがルミエルの肩を抱き、頭を撫でた。  恐れていた光景を前に喉が締め付けられる。息がうまく吸えない。  全員の視線に射抜かれ、足が竦む。  「……母上――カリナさんは」  縋るように問いかける。  彼女はキリエルを生んだ後、公爵家の敷地の隅にある粗末な小屋に軟禁されていた。  醜聞を漏らさぬよう、死ぬまで出してもらえないだろう。  キリエルが公爵家で暮らしていたころは、月に1回程度、食料などを渡しに行っていたが、母子の会話はほとんどない。  互いに同情すれど、支え合えるほどの余裕もなかった。  公爵は目を細め、吐き捨てるように言った。  「あの卑しい女のことなど知らぬ。さっさと野垂れ死んでくれたら、どれほど心安らかなことか」  次男が追い打ちをかける。  「正妻たる“我らの母上”は、聖女選定の日から床に伏しておられる。ショックで立ち上がることもできん。――すべて、お前のせいだ」  背骨が軋む。鉄のように冷たい塊が、胸を押しつぶしている。  (そうだ、俺が……全部……)  息ができない。目の奥が焼けつくようだ。  「……申し訳……ございませんでした」  震える声で口走った言葉は、惨めな懇願のように石造りの壁に響いた。  「黙れ!」  セオドルが勢いよく立ち上がり、血走った目で突進してくる。  文官である次男の色白で骨ばった拳が振り上げられる。  殴られたことは何度となくある。大して痛くはない、耐えられる、耐えられる。  早鐘を打つ心臓に繰り返し言い聞かせた。  その腕を鋭い声が止めた。  「やめろ」  次期公爵となる長男――ダリオだった。  長身の影がすっと立ち上がり、弟の肩を押さえる。  公爵家の象徴たる深い青を髪と瞳に持ち、紙のように白い肌をより冷たく見せる。  甘く低い声音と、涼やかで少し垂れた目尻は誰もが一目を置く存在感を放っていた。  深い紺色の外套の裾が揺れ、その威圧感に場が静まり返る。  ゆっくりとキリエルの前へ歩み寄り、甘く囁く。  「よくやったな、愛しい弟よ」  黄金の瞳が驚きで見開かれる。  ――兄上は、いまなんと言った……?  「此度のことは、お前のせいではない。女神が選んだのだ。ならば、それは喜ばしいことだろう」  耳当たりのよい言葉が脳に染み込んでくる。  肩に置かれた手は氷のように冷たい。  薄気味の悪さを感じ、肌が粟立った。  父も次男も、ルミエルでさえ、唖然とその光景を見ていた。  キリエルは胸を大きく揺さぶられる。  「…………なぜ……?」  疑念と警鐘が頭の中を渦巻く。  「なぜだって?……家族じゃないか、キリエル」  深海のように光のない青い瞳がキリエルを射抜く。  口元には笑みを湛えているが、本心からの言葉とは到底思えない。  ましてやキリエルの名を口にしたことが、今まであっただろうか。  ――それでも。  「弟よ」と呼ばれる響きに、縋りつきたい衝動が込み上げる。  拒絶され続けた家族から差し出された、初めての庇護。  期待しては傷けられてきたはずの記憶が掻き消えるほど、甘やかな誘いだった。  目の前に餌を垂らされていると分かっていても、簡単には抗えない。  操られるように小さく頷いた瞬間、ダリオの口端は満足げに引きあがる。  決別する勇気もなく、ただこのしがらみに絡め捕られていく。    ◇  日が沈み、星が瞬く。  近衛騎士の交代の時刻となり、扉が静かに開いた。  新しく入った若い騎士が、赤い封蝋の施された手紙を差し出す。  「殿下からお預かりしました」  胸の奥が強く震えた。  慌てて受け取り、封を切る。  ――お前を案じている。  ――いつでも頼ってくれ。  ――愛している、キリエル。  短い言葉。けれど、その温もりが胸に沁み渡る。  (……すべてを預けてしまいたい)  そう思うと同時に、紙に記されていないものの重さに気づく。  国内の不穏、教会の圧力、王族としての政務。  カシアンが背負っている重荷を思えば、甘えることはできなかった。  「お疲れでしょう、聖女様」  柔らかな声とともに、ベレオンが銀盆を携えて現れる。  琥珀色の甘い香りが鼻をくすぐる。  「リラックス効果のある茶葉を煎じました。どうか今夜はよくお休みいただきたく」  カップをテーブルへ置くと、ベレオンは自然な仕草で近衛騎士にも注ぐ。  自らの杯にも注ぎ、一口ふくみ飲み込む。  その細やかな配慮に、騎士は一礼してカップを片手に壁際に戻る。  「それと……」  差し出されたのは、見覚えのある公爵家の印章。  「公爵家長兄のダリオ様から、面会依頼でございます。明日の朝に」  指先が凍りつく。  「……また、兄上に」  不安を隠せず、声が震えた。  ベレオンはそっと椅子を引き、寝台の脇に腰を下ろす。  「大丈夫です。聖女様は女神に選ばれた御方。誰もその尊さを奪えません」  甘やかな声音が鼓膜を撫でる。  紅茶の注がれたカップを手渡され、指先を手のひらで包まれる。  「今夜は何も考えず、朝までぐっすりお休みください」  ゆっくりと血がめぐり、体温が戻る。  紅茶を一杯飲み終わる頃には、不思議と胸を締めつけていた不安がほどけていた。  窓辺で祈りを捧げ終わると、眠気に吸い込まれるように寝台に倒れて眠ってしまった。  部屋は茶葉の香りに包まれていた。  ◇  甘美な香りの中で、夢を見た。  カシアンだ。  初めて体を重ねたあの部屋で、再びカシアンと体を触れ合っている。  紅の瞳が切なげに細められ、熱を帯びた吐息が頬を撫でる。  「……美しい」  唇が触れる。柔らかな感触に、胸が焼けるように熱くなった。  熱い舌を絡ませ、吐息を奪い合う。  「あ……、カシアン……っ」  指が体を検分するように這う。  腰を慎重に撫で上げられると、湿った吐息が漏れる。  ――この男が好きだ。  認めてしまえば、体は簡単に熱を上げる。  固くなったものを手のひらで包まれ、上下に擦られる。  「――んあ!」  たまらず腰が揺れ、先走りが垂れた。  カシアンの顔がゆっくりと足の間に下り、湿った吐息がキリエルの熱に当たる。  「……何してる、やめろ」  自分のペニス越しに好いた男の端整な顔を見て、羞恥心が沸き上がる。  彼は濡れた舌をちらりと見せつけ、いたずらに笑うと、大きな口の中に熱を収めてしまう。  「――ひっ!あ……あぁ!」  あまりの衝撃に涙が散る。  ぬめった感触が敏感な場所を暴き、慰めるように撫でていく。  腰が跳ね、脚はシーツを蹴る。  弓のようにしなった背中に汗が伝い、脳に電流を走らせた。  大きな快感の波に攫われ藻掻くうちに、高められた熱が吹き出す。  痙攣する腰を大きな手が撫でた。  汗ばんだ体温が震える体を抱き込む。  「……愛している」  熱を帯びた囁きが胸を抉る。  この男が欲しくてたまらない。だが、それは許されぬ願いのようで――。  苦しさに喉が詰まり、お互いの肌をすり合わせる。  夢の中の腕に抱き締められながら、涙を流し続けた。

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