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洗脳の香 1

 朝は静かにやってきた。  薄曇りの光がカーテンを淡く透かし、バラ園の匂いが遠く窓辺まで届く。  キリエルはまだ夢の余韻に囚われ、体の芯に残った熱を引きずりながら寝台を抜け出すと、朝日に向かって祈りを捧げた。  廊下には近衛騎士が二人、規則通りに配されている。甲冑の金属音が床に小さく反響するたび、胸の奥がぎゅっと縮む。  客間の扉が重く開かれ、ダリオがゆったりとソファから立ち上がる。  深い紺の外套は床に流れ、彼の一挙手一投足が空気を支配する。  彼は皮手袋を外すと、静かに片手を差し出す。  手の甲に朝露が似合うような美しさがあり、その美貌が凶器のように冷たく光る。  「キリエル、よく来てくれた」  声は柔らかく、だが端に毒を含んでいる。  かつてルミエラに注がれていた温かな眼差しが、今は自分に向けられている。  慎重に兄の手を取り、恐る恐る自らの額を押し当てる。  十字のあざがひやりと冷えて疼く。  ダリオの唇は、子供に微笑みかけるように柔らかく弧を描いた。  ――本来なら有り得ぬ「優しい兄」の像。  警戒の影が脳裏をよぎる。だが、幼い頃から求め続けて届かなかった温もりが、霞んだ視界の中で形を取り始めていた。  テーブルを挟んで向かいの椅子に腰かける。  ふと、鼻をくすぐる甘い香りに気づいた。  壁際の香炉から、細い白煙がゆるやかに立ちのぼっている。  (……香?)  祈祷に使うものに似ているが、どこか濃密で、脳を柔らかく痺れさせた。  「疲れているだろう。お前はよくやっている」  甘やかな声が耳を撫でる。  低い声音が慈愛に満ちているように錯覚してしまう。  (違う……違うはずだ……)  心の奥で警鐘が鳴るのに、体は緩やかに縛られていく。  「……ありがとう、ございます。……兄上」  「そんな呼び方は堅苦しいな。昔のように呼んでくれ」  ――昔。一度だけ、ルミエルの真似をして呼んだことがあった。  妹のように認められ、愛されたくて。  だがその反応は苛烈なものだった。  不敬だと鞭を打たれ、折檻されたのだ。  後にも先にも、兄のことをそう呼んだことはない。  「……ダリオ、お兄様」  鞭で打たれた背中から唇へ、震えが広がる。  心臓の音が耳元で響く。  強張って裾を握る指先が冷えていく。  「ああ、これからはそう呼んでくれ。可愛い弟よ」   張りつめていた糸が切れるように、息が短く漏れた。  あの痛くて苦しい記憶が、上書きされた。その安心感に目元が潤む。  喜びに震える脳が体の力を奪う。  ――甘い、香りがする。  窓から風が入り、香の匂いが強くなる。  「風が強いな。窓を閉めてくれるか」  ソファに深く沈むダリオが、悠然と指示を出す。  キリエルは椅子から立ち上がると、ふらふらと窓辺に歩み寄り窓を閉める。  香の匂いが部屋の中を満たしていく。  「……閉めました、お兄様」  子供のように稚拙な言葉。  なぜか頭に靄がかかったように動かない。  疑念が胸の奥でわずかに湧くも、この甘い時間の幸せが思考を打ち消してしまう。  「いい子だ、キリエル。次は……紅茶を淹れ直してくれ」  侍女がするような仕事を言いつけ、満足げに笑う。  なぜ自分が、という疑問の前に体動く。  「いい子だな」  頭を撫でられると、仕舞い込んだ幼い自分が歓喜の声を上げる。  家族が欲しかった。兄が欲しかった。愛されたかった。  ダリオの命令に従うことを繰り返すうちに、脳は甘く溶け考えるのをやめてしまった。    「そうだ、その呼び方。私が禁じたのだったな」  唐突に思い出したように声が上がる。  「お前の背中に鞭を打った……悪いことをした」  あの家のすべての暗い記憶が浄化されるようだった。  香の甘い匂いが肺を満たす。  今日という日まで様々な仕打ちに耐えることができ、幸せだった。  「……衣を脱げ」  兄から命令が下される。  一瞬、体が固まる。  甘く溶けた脳が瞬時に冷えていく。  ダリオが悠然と立ち上がり、歩み寄る。  「聞こえなかったのか」  言葉と同時に頬を打たれた。乾いた衝撃が首筋まで走る。  髪を乱暴に掴まれ、強引に顔を上げさせられる。  「命令には従え」  痛みで思考が揺さぶられ、拒む言葉が出てこない。  躊躇いながらも震える手で結び目を解く。  布がするりと肩から滑り落ち、褐色の肌が露わになる。  「背中を見せろ。私がつけた傷だ」  衣を腰まで落とし、背を向ける。  後ろで束ねている髪を右手で持ち上げ、傷を晒す。  冷や汗の浮かんだ小麦色の肌に、何本もの太い線状の古傷が刻まれていた。  当時の記憶が体に蘇り、震えがおさまらない。  また鞭で打たれる。縛られて閉じ込められる。  それが王宮で行われるはずのない行為だと、気付くことすらできない状態だった。  永遠にも思える沈黙。  やがて、低く甘い声とともに、背を撫でる手のひらが降りてくる。  「……いい子だ、可愛い弟よ」  古傷の上をゆっくりとなぞられるたび、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。  痛みに従った直後に与えられる、救いにも似た褒美。  その落差が、恐怖と安堵をねじれさせ、逃げ場を失わせていった。

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