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灯 1

 次に瞼を開けたとき、見慣れた学院の中庭に立っていた。  薄い制服の上着、草の匂い、遠くから聞こえる鐘の音。  芝生の上に石造りの塔の長い影が落ち、古びた噴水の水滴が光を反射する。  (――そうだ、俺はいつもここであいつを待っていた)  夕暮れ時の風が汗ばんだ肌を冷やす。  ゆっくりと息を吸うと、体が軽くなるような気がした。  「……待ったか」  振り向けば、書物を抱えたカシアンが立っていた。  夕陽を背にした赤髪が燃えるように揺れる。  不器用なくせに、なぜかいつもこちらを気にかけている男だった。  「別に」  答えながらも頬が緩んでしまう。  赤い瞳がキリエルを見つめ、嬉しそうに細められる。  この男の心根の温かさが好きだった。  最初に出会ったのは、カシアンとルミエルの婚約パーティーでのこと。  当時は10歳の子供だったが、カシアンはすでに皇子たる風格を持ち、口を閉ざしたまま参列者を見つめる様子に、大人たちは挨拶もそこそこに遠巻きに噂をするばかりだった。  そんな中、一人ぽつんと部屋の隅で立ち尽くすキリエルを見つけ、そっと隣に立つ。  突然の皇子の行動に焦るキリエルだったが、何を言っても去っていかないことに呆れ、その日は一日一緒に過ごした。  学院のメインストリートを並んで歩けば、すれ違う学生たちが自然に道を開ける。  彼は次期皇太子。自分は妾腹の三男。  気後れする気持ちがないと言えば嘘になるが、将来は妹がこの男の妻になるのだ。親交があって悪いことはないはず。そう自分に言い聞かせ、胸の内の高鳴りに蓋をする。  食事を共にし、訓練場で剣を交えたこともあった。  彼の仕草ひとつひとつが、瞳に焼き付く。  言葉は少ないが、その行動、その眼差しが、自分に向けられた愛情だと分かる。  友情か家族愛か、それ以外の何かなのか、名づけることが恐ろしい。  この関係がずっと続くよう願った。  ある日のこと。  訓練の最中、カシアンを庇って腕を切ってしまった。  血を滲ませていたキリエルの手を、カシアンが乱暴に掴む。  「あれぐらい、自分で対処する……お前はもっと自分を大事にしろ」  不器用な叱責に、胸の奥が温かくなる。  「俺は……ただの騎士だから。体を張ることしかできない」  照れ隠しにそう答えると、カシアンは呆れたように息を吐く。  「ほかにも怪我しているだろう。今日は動きが鈍かった」  腕の包帯を巻き終わり、今度は上着を脱がせようとする。  「いや、してない。大丈夫だ」  ぎくりと体が反応してしまい、言葉を重ねて誤魔化す。  カシアンは片眉を上げ、「嘘が下手になったな」と笑った。  観念して体を脱力させる。  腹部の黒ずんだあざを見て、カシアンの瞳が驚きに見開かれた。  先週、上級生たちに目をつけられ、囲まれて服の下ばかり殴られた。  皇子と一緒にいるのが気に食わないということだったが、カシアンと離れたとて、難癖をつけて殴ってくるに決まっている。  キリエルに何かあったも公爵家が出てくることはないと、学院の全員が知っていた。  カシアンは丁寧に薬を塗ると、几帳面に包帯を巻いていく。  「……守れなくて、すまない」  沈痛な面持ちで項垂れるカシアンから包帯を奪い、自分で巻き終える。  そんな顔をさせた自分に腹が立つ。  カシアンの手の感触が、いつまでも肌を痺れさせた。  夕闇に太陽が溶ける。  宿舎の机に散らばる羊皮紙が夜風で微かに揺れ、壁は油灯の煤で少し黒ずんでいた。  キリエルは今日も窓辺で祈りを捧げる。  息を吐くように自然と零れた、幼いころから唱えてきた言葉。  「――サラが幸せに生きられますように」  隣で耳にしたカシアンが、怪訝そうに首を傾げる。  「それは……古い祈りの言葉か?」  「さあ……なんだっけ。ずっと昔からそう祈ってる」  「……サラ。古語で“大切な人”って意味だ」  カシアンは積まれていた書物を引き寄せると、ページを慎重にめくる。  かさついた指で紙を擦る音が、耳に心地いい。  カシアンは小さく笑った。  「なら、お前は俺のサラだ」  真っすぐな視線に射抜かれ、心臓が跳ねる。  嬉しくてたまらないはずなのに、なぜか泣きたくなった。  「……皇子様のサラは、ルミエルだろ」  差し出された美しい愛を受け取る勇気はない。  自分では釣り合わないと痛いほど分かっていた。  少し傷ついたように目を伏せたカシアンは、声を落として囁く。  「……じゃあ、その祈りを俺にも捧げてくれるか」  ――家族を、国を、そして愛しい人を守りたい。  目を閉じて手を組み、祈りを捧げる。  嘘つきで臆病な自分の、唯一の本音だ。  瞼を透かす月明りが優しい。我らが太陽の女神は、明日も恵みを授けてくださるだろう。  ――サラが幸せに生きられますように。  その声に、誰かの声が重なった。  慈悲深く、悲し気で、聞き覚えのある女性の声だった。

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