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愚者の祈り 3
――サラが幸せに生きられますように。
(……母さん……?)
意識を覆う靄が、少しずつ晴れていく。
月に一度、そっと訪れる場所で聞いた悲し気な声。
瞼を押し上げると、天井は見慣れた学院のものではなく、薄暗く淀んだ聖堂脇の一室だった。
体は清められ、簡素な祭衣が着せられている。
寝台に寝かされた自分の体は鉛のように重く、熱があるようで額が火照っていた。
視界の端に、小柄な人影が震えている。
痩せた頬、裂けた指先、色褪せた布を纏った女性。
母――カリナだった。
「……キリエル……」
かすれた声で名を呼ぶと、彼女の目から涙がこぼれた。
その涙が頬に落ちた瞬間、麻痺していた心が小さく震えた。
「母……さん……」
掠れた声が自分の口から洩れ、驚いた。まだ言葉を出せる。
カリナは両腕で我が子を抱きしめ、嗚咽をこらえながら囁いた。
「私と同じように囚われてほしくない……どうか、逃げて……」
その言葉とともに、彼女は祈るように瞳を閉じた。
「サラが幸せに生きられますように……」
胸の奥が強く震えた。
その祝詞は、最初に祈りを教えてくれた母から聞いたのだった。
何度も唱え、支えにしてきた言葉。
(……そうだ、俺は……守るために祈ってきた……)
霞んでいた意識が急速に現実へと戻っていく。
忘れていた体の痛みが、頭を冴えさせる。
「どうして、ここに……」
「……小屋から、見えたの。久しく人が訪れなかった聖堂に、たくさんの明かりが灯って……嫌な胸騒ぎがした」
荒んだ指先を重ねて、震える声で続ける。
「……屋敷の使用人も、この一月は誰も来なかった。支援も途絶え、ただ祈るしかなかった。……そしたら、あなたの姿が見えたの。ふらついていて、神官様と……ダリオ様に支えられてた……」
事態の重さに胸が詰まる。
自分が聖女に選ばれたことで、母のもとへ届く物資さえ絶たれていたのだ。
公爵家にとって、自分も、母も、邪魔な存在にすぎない。
「今なら見張りが少ないわ。兵や使用人が聖堂に集められていたから……だから」
「……母さん、一緒に」
呼びかけると、カリナは首を横に振った。
「いいの。私は……このままでも構わない。この屋敷には私以外にもいるのよ、役目に縛られた人が……でも、あなたは違う」
頬に触れた手は骨ばって冷たいのに、不思議と懐かしい温もりがあった。
細い腕に助け起こされ、熱の溜まった頭が眩暈を起こす。
目を閉じると、先ほどの夢が蘇り胸の奥が熱くなる。
霞に沈んでいた意識の中で、はっきりとした像が浮かぶ。
赤髪の少年の笑顔。
「なら、お前は俺のサラだ」と囁いた声。
そして、守りたかった背中。
体の熱が急速に広がり、全身が白い炎に包まれる感覚が走った。
視界が眩く閃き、黄金色の光が瞳の奥に宿る。
額の印が赤く燃え、項垂れるキリエルの唇がひとりでに開いた。
「――赤き星はまだ堕ちていない」
澄んだ二重の声が、その場に響いた。
母カリナは驚き、両手を床につけ頭を垂れる。
声は確かにキリエルの口から放たれているのに、それは彼自身のものではなかった。
「北東の森、断崖の砦へ向かえ」
女神はゆったりと微笑むと、キリエル自身の体を抱きしめた。
労わるような手つきで肌を撫でる。
「……女神、様……」
カリナの涙が頬を伝う。
女神を直接目にしたこと以上に、自分の息子が女神に愛されていることが嬉しかった。
やがて光は薄れ、軋んでいたキリエルの体に再び力が戻る。
息を荒げながら顔を上げた彼の瞳には、もはや霞はなく、はっきりとした光が宿っていた。
(……俺は……あいつを守る騎士だ……)
噴き出る汗を拭い、呼吸を深める。
手足の感覚が戻ってくる。
黄金の瞳には勇気の火が灯っていた。
◇
石造りの廊下はひんやりと湿り気を帯び、灯りの落ちた燭台が影を長く伸ばしていた。
カリナが足を止め、耳を澄ませる。
遠くからは聖堂に集まる人々のざわめきがかすかに響き、周辺の空気は静かに留まっていた。
「……今のうちに」
囁きにうなずき、キリエルは母を支えながら歩を進める。
石畳の上で裸足がわずかに擦れるたび、心臓が跳ねた。
やがて裏口へ通じる角を曲がったときだった。
微かな衣擦れの音が鳴る。
そこに立っていたのは、公爵夫人だった。
やつれた頬に深い隈を刻み、夜具の上から羽織をぞんざいに纏っている。
その眼差しは憔悴しきりながらも、意思を失ってはいなかった。
「……あなた……」
夫人の視線が、逃げようとする二人を射抜いた。
夫人は息を詰め、混乱しながらも責めるように囁いた。
「ここで何をしているの、早く小屋へ戻りなさい!……キリエル、あなたは……なぜここにいるんです……!」
キリエルの祭衣が目に留まると、慌てて目線を逸らせる。
「聖堂に集まる人影が気になって……心配して来てみれば。……早く王宮へ戻りなさい。二度とこの屋敷に近づかないで」
震える声で吐き出される言葉は拒絶だった。
だがこれまでも、公爵夫人はキリエル自身を傷つけるようなことはしなかった。
娘を生み聖女に育てる、ただそれだけを求められ尽くしてきた敬虔な信徒。
彼女もまた、カリナと同じように役目に縛られた女性だった。
夫人はただ疲れ切ったように零す。
「もうたくさんよ……」
カリナは公爵夫人に寄り添うと、キリエルの背中を押す。
「……いってらっしゃい」
キリエルは息を飲み、裏口に向かって歩み出す。
冷たい夜気が流れ込み、暗い庭園の匂いが鼻をかすめた。
夫人の瞳がキリエルを追う。
その奥には確かな同情と、同時に羨望のようなものが滲んでいた。
「行きなさい。……サラが幸せに生きられますように」
微かに耳に届いた言葉が胸の奥に響く。
振り返った瞬間、二人の女の影が重なり合い、同じ祈りを宿しているように見えた。
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