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愚者の祈り 4 ※
裏口を抜けると、冷たい夜気が頬を打った。
かつて完璧に整えられていた庭園は放置され、噴水の水は淀み、絡まった蔦が石像に影を落としている。
「……ここまで来れば」
安堵の吐息は、すぐに喉奥で途切れた。
――硬質な靴音。
石畳を叩く金属音がじわじわと近づき、犬の吠え声が夜気を裂いた。
血の気が引く。兵が放たれたのだ。
キリエルの不在に気づき、聖堂に集められていた者たちが動き出したのだろう。
「母さん……」
無事に小屋へ戻れただろうか。
惜別を噛み殺し、暗い庭を駆け抜ける。
裸足に湿った土がまとわりつき、息が荒くなる。
馬小屋は半ば朽ちていたが、奥の一頭が鼻を鳴らしてこちらを見ていた。
屋敷で暮らした頃に世話をした黒鹿毛の馬だ。
手綱を握ると、黒々とした目が応えるように瞬きをした。
「頼む……俺を、カシアンのもとへ」
背に飛び乗った刹那、背後から兵の怒声が轟いた。
剣の鞘が鳴り、松明の炎が闇を掻き分けて迫る。
あと数歩で捕らえられる――。
腹を蹴ると、馬は夜の中へ跳ね出した。
蹄音が石畳を叩き、真っ黒な矢となって夜風に乗り駆け抜ける。
風の中で、母の祈りが聞こえた気がした。
胸の奥に刻みつけ、追っ手を振り払うように闇を裂いて走り去った。
◇
影を駆ける蹄の音が、森の奥に吸い込まれていく。
星すら雲に隠れ、闇が深く濃くなる。風が梢を渡り、どこか遠くで狼が吠える。
背後にはまだ、追っ手の気配が微かに残っていた。
鉄を擦るようなざわめきが、風に運ばれて耳に刺さる。
――お前の殿下はもう死んだよ。
ダリオの冷ややかな声が、頭蓋の中をこだまする。
信じるな、と心が叫ぶ。だが、絶望の毒がひたひたと染み出してくる。
「……違う」
唇に血がにじむほど噛み締める。
女神のお告げがある。
そして、あいつを信じている。
闇に呑まれかけた己を、確かな光が引き戻した。
――護ると誓ったのだ。あの男を。騎士として。
東の空が、わずかに白み始める。夜明けが近い。
鬱蒼とした北東の森は、冷たい霧に覆われていた。
湿った苔の匂いの中に、焦げたような臭気が混じる。
耳を澄ませば、鉄のぶつかる音、怒号の断片が風に乗って届く。
心臓の鼓動が早くなる。
霧の切れ間に、崖上の砦の影が浮かび上がる。
漆黒の塊が夜気の中に沈んでいた。
霧の向こうで火花が散った。
剣戟の音と怒声が渦を巻く中、ひときわ鮮烈な赤い影が走り出す。
――カシアンだ。
裾を裂かれ、肩を血に染まっている。
背後から迫る刺客の刃が鋭く光った。
「……カシアン!」
叫んだ瞬間、キリエルは馬腹を蹴った。
蹄が地を叩き、凶刃の間へ割り込む。
剣を奪い取り振り抜けば、鎧の継ぎ目から血が弾けた。
霧の中に散った飛沫が頬に生温かく降りかかる。
カシアンが振り返る。驚愕と安堵が入り混じった瞳。
その視線を背で受けながら、キリエルは次々と迫る刃を斬り伏せた。
光を纏う衣をたなびかせ、鋭い剣技を繰り出す。
鉄と鉄が軋み、鮮血が舞い、霧を紅く染め上げていく。
最後の一人が喉を掻き切られ、呻きとともに地へ崩れる。
荒い呼吸のまま、キリエルは剣先を下ろした。
純白だった祭衣が血と泥に染まっている。
血潮に濡れた頬を拭いもせず、口の端をかすかに吊り上げる。
「……見惚れたか?」
冗談めいた声は掠れ、鉄臭いの匂いに混じって凛と響いた。
カシアンは言葉を失った。
なぜここにいる。
胸に去来する安堵と混乱が、喉を塞ぐ。
「……王宮の中に、王家へ刃を向けるやつがいる」
キリエルは自嘲を滲ませ、血に濡れた剣を振り払う。
「俺をよく思わぬ者が、殿下の見立てより多かったみたいだな」
カシアンは想像した。
この男が、どれほどの困難をくぐってここまで辿り着いたのかを。
胸を締めつける後悔と、底知れぬ不安。
だが、いま目の前に立つのは紛れもなくキリエルだった。
「……ありがとう」
短く、万感の思いを絞り出す。
その瞬間、砦の上から炎が上がった。鬨の声が森を揺らす。
――砦はすでに敵の手に落ちていた。
「ここは持たない。退くぞ」
キリエルはカシアンの腕を掴み、馬に引き上げる。
ふたりの体が血と汗で擦れ合い、肌を焦がすほど熱い。
互いの呼吸が荒く重なり合い、それだけで胸の奥が疼いた。
霧に潜るように、馬は森を駆け抜ける。
背後では砦の影が炎に吞まれ、黒煙が空へ昇っていく。
◇
やがて静かな森の奥地へと辿り着く。水流の音や、鳥の囀りが耳を擽る。
追っ手の気配はない。
二人は澄んだ池の近くへ降り立つ。
透明な水面は薄明かりを受け、白く霞んだ森と、血と泥に覆われた人影を映し出していた。
静謐な空気に、ようやく二人は息を深く吐いた。
キリエルは腰の剣を置き、池へ歩み寄る。
両の手ですくった水は氷のように冷たく、指先が心地よく冷える。
顔を洗うと、血の匂いがやっと薄らいでいった。
カシアンも近づき、肩の傷を流そうと衣を外す。
布が濡れ、赤黒い染みが水に溶けていった。
「カシアン……傷が深い」
思わずキリエルの声が硬くなる。
「大丈夫、血は止まった」
カシアンは首を振る。
その横顔は冷静に見えたが、唇には色がなかった。
キリエルは言葉もなく手を伸ばす。
指が肌に触れると、カシアンの体温が確かに伝わってくる。
生きている――。その事実だけで胸の奥が震えた。
「……さっきは助かった」
カシアンが低く言う。
「俺は……何もできなかった。砦を、仲間を守ることも……」
「責めるな。俺も同じだ」
水を滴らせた手でカシアンの頬を撫でる。
血と泥の汚れを拭う仕草は慰めにも似ている。
「だが、生きてる。……まだ間に合う」
カシアンがその手を掴んだ。
濡れた指先が強く絡み合い、互いの呼吸が近づく。
あの戦場を生き抜いた。
高ぶったままの体が熱を引き寄せ合う。
水滴が指の隙間を伝い落ちる。
絡め取られた掌の熱で、冷えた水はすぐにぬくるなる。
「……キリエル」
名を呼ぶ声はかすれ、熱っぽい切実さを帯びていた。
答える代わりに、キリエルは距離を詰める。
濡れた頬をもう一度撫で、額を合わせた。
互いの荒い息が触れ合い、胸の奥でくすぶっていたものが一気に燃え上がる。
「生きてて……よかった」
キリエルの震える囁きに、カシアンの瞳が大きく揺れた。
次の瞬間、堰を切ったように強く抱き寄せられる。
「もう離さない。二度と……」
唇が重なると、隙間なく抱き合い、全身が互いを求め合う。
静謐は破られ、生を求める衝動が荒々しく迸る。
血と泥に塗れた体を、今度は愛で清めるように肌を擦り合わせる。
星が消える夜明けの狭間、池の水音に紛れて、ふたりの吐息が重なっていった。
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