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澄み渡るほとり 3

  森の向こうに薄い金の光が差し込み、冷えた空気をゆっくりと温めていく。  池の水面は静まり返り、さっきまでの熱の名残を映したまま揺れていた。  キリエルは岩の上に腰を下ろし、濡れた髪を指で梳いた。  背後から歩み寄ったカシアンが、肩に外套を掛ける。  布越しに感じる温もりが、朝の光よりも優しかった。  「……王都に戻らなくてもいい。お前のそばにいよう」  囁く声は低く、風に溶ける。  キリエルはゆっくりと顔を上げた。  疲労がにじむ瞳の奥には、決意の光が宿っていた。  「逃げても、また誰かが泣く。……それじゃ、やるせないだろ」  ふたりは寄り添い、温かい鼓動の音に耳を傾ける。  鳥の声が、遠くで始まりを告げていた。  カシアンはしばらく黙してから、息を吐いた。  「お前が守ろうとしたものを、俺も守ろう。共に祈らせてくれ」  キリエルの手を取って、その指先に唇を寄せる。  「俺は……お前とふたりで、この国を守りたい」  光がふたりを包み、水鏡が眩しく煌めく。  夜の果てで祈りが重なる。  ――サラが幸せに生きられますように。  ◇  乾きかけの衣をまとい、黒鹿毛に跨る。  昼までに王都の城壁が見えた。  春を迎えた街には花の香りが漂い、人々のざわめきが聞こえる。  門の周りには重い空気が張り詰め、衛兵たちの視線が忙しない。  誰もが、国の中心で何かが起きていることを知っていた。  カシアンは城壁を見上げて深く息をつく。  「……戻ったな」  隣でキリエルも静かに頷いた。  「俺たちがいなかった間に、何が起きたか確かめないと」  王宮前の広場は、動揺と怒りの声で満ちていた。  壇上にはダリオが立ち、黒い外套の裾を風に揺らしている。  「――王は神の声を無視し、己の欲に溺れた!」  「王家の血はもはや穢れている!」  「聖女の不在が何よりの証拠。神はこの国を見放されたのだ!」  彼の背後には数名の高位神官が控え、無言のまま民の前に威圧を放っていた。  白い祭服の列が、王家と神殿が決裂したことを告げているようだった。  人々の顔に、信仰と恐怖が入り混じる。  真実が覆い隠され、ただ噂と不安に押し流されている。  城門前では、近衛の兵たちが動けずにいた。  誰もが、神と王のどちらに従うべきか判断できない。  そのとき、群衆の端でざわめきが起こった。  太陽の光を反射する銀の鞍――馬上の影が、ゆっくりと広場へ進み出る。  血の染みを残したままの赤黒い祭衣。  細かな銀糸の刺繍が浮かび上がり、凛とした空気を孕んでいる。  温かい風が吹き抜け、裾を翻した。  誰かが息を呑み、次いで小さくつぶやく。  「……聖女様だ」  その一言が火種のように広がり、広場が静まり返る。  ダリオが言葉を失い、神官たちは次々と跪く。  民衆の目はただ一人――キリエルに向けられていた。  キリエルはゆっくりと馬を降り、壇上に向かって歩み出る。  陽光が背に差し込み、長い影が階段に伸びていく。  群衆へ振り返ると、瞳が光を反射して黄金色に輝いた。  「王は、誰よりも神を敬い、民を愛している」  静かな声が、広場を包んだ。  「神の御心を偽る者よ――悔い改め、祈りなさい」  その声に呼応するように、風向きが変わり、どこからか花びらが舞い上がった。  不信の囁きが潮のように引き、日の光が一層強くなる。  春の風が、人々の頬を優しく撫でた。  ダリオの頬が引き攣る。  「なぜ、戻ってきた……?……あいつも、なぜ生きている……っ!」  震える声が、広場の静寂に吸い込まれる。  赤い長髪が風に揺れ、悠然と壇上へと歩みを進める。  靴音だけが響くたび、民衆が無意識に道を開いた。  「民を惑わせた罪、神は見ている」  「待て! 俺は――!」  言葉を吐き出すより早く、ダリオは石畳に押さえつけられていた。  皇太子の命令は、言葉にせずとも伝わった。誰もが彼に従うべきだと悟る。  治世者としての力の差をまざまざと示していた。  キリエルは壇上から王宮を見上げる。  そこには、白髪の賢王が立っていた。  「――陛下」  キリエルが膝を折ると、王はゆっくりと首を振り、皺の刻まれた頬をゆるませた。  王宮の鐘が鳴る。  王は恭しく手を組み、太陽に向かって祈りを捧げた。国と、民のために。  群衆は次々と跪き、広場の空気が静謐に変わっていく。  キリエルは空を仰ぎ、目を閉じた。  「女神エルトゥメリアよ――この国を、守ってください」  強い春風が光をまとった花びらを天高く舞い上がる。  人々が息を呑み、誰かが囁いた。  「……祝福だ」  カシアンがそっとキリエルの隣に立つ。  「もう一度、この国のために――祈ろう」  キリエルは微笑んで頷いた。  春の光がふたりを包み、花びらが金色の軌跡を描きながら舞い落ちた。

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