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第22話
言ってから、萩山は自分の言葉の意味に気づいて息を詰まらせた。
しかし目の前の男は少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「……まあ、そういうのも、ありか」
その声があまりにも優しくて、胸の奥が少し痛む。
二人並んで寝室に入る時も、その痛みはとれることはなかった。
ベッドに腰を下ろした瞬間、マットレスが沈んでふたりの体温が近づいた。
暗くした部屋の中で、シーツの擦れる音だけが小さく響く。
「……なんか、緊張するな」
萩山は軽く笑ってごまかすが、心臓の鼓動は冗談じゃないほど早い。
視線を合わせてしまったら、もう止まらない気がした。
崎田の指先が、ほんの一瞬、自分の頬に触れる。そのまま唇が近づいてきて――萩山は覚悟を決めたように目を閉じる。
しかし、次に触れたのは唇ではなく、額だった。
額に落とされたキスは柔らかくて少しだけ冷たく、胸の奥がじんと熱くなった。
彼の唇を追いかけたい気持ちが確かにあったのに、萩山は何も言えなかった。
そんな萩山の葛藤を知ってか知らずか、崎田はそのまま布団に潜り込み背を向けるでもなく、向かい合う形で横になる。
近すぎる距離、互いの吐息が混ざり合う。
何も起きないことが、こんなにも苦しいなんて萩山は知らなかった。
「おやすみ、由樹」
その一言で、ようやく呼吸を思い出す。
「……おやすみ」
言葉を返すと、夜が静かに落ちていった。
***
まぶたの裏に光を感じて、萩山はゆっくりと目を開けた。
カーテンの隙間から、淡い朝日が差し込んでいる。
目の前には、穏やかな寝息を立てる崎田の横顔。
昨夜、向かい合ってそのまま眠ってしまったのだと気づくのに、少し時間がかかった。
額に残る温もりを思い出すたび、胸の奥がきゅうっと縮む。
夢だったと言われた方が楽だと思うのに、現実の方がずっと優しくて、残酷だ。
そっと身を起こし、布団から抜け出す。
寝返りを打った崎田が微かに眉を動かしたが、目を覚ますことはなかった。
洗面所を借りて顔を洗って身支度を整えた頃、ちょうど崎田が起き出してきた。
「早いな。もう起きてたのか?」
「うん。起こすの悪いかなって」
「全然。送ってくよ、どうせ通り道だし、車は職場に置きっぱなしだろ」
何でもない口調で言われたその一言に、返事が少し遅れる。
昨夜のことを気にしているのは自分だけみたいで、胸の奥がざらついた。
食パンを焼く音と、ドリップコーヒーの香り。
朝食ぐらいは作るよ、という崎田の提案を受け入れたが、ソファーに座っている時間がこれ程までに長く感じることはなかった。
パンを齧っている間、何を話してもぎこちなくなりそうで、結局ふたりとも口数は少なかった。
出発の時刻になり、玄関を出る。
朝の空気がまだ冷たく、頬に当たるたび昨夜の熱を思い出させた。
車に乗り込むと、ラジオから朝のニュースが流れている。
信号待ちのたび、横顔を見るたび、何か言いたい言葉が喉の奥でほどけて消えて、いつの間にか役場の前に来てしまっていた。
「……ありがとな、送ってもらって」
「気にすんな。また具合悪くなったらすぐ言えよ」
穏やかに笑うその声が、いつも通りすぎて痛い。
また強いヒートが来てしまったらどうしよう、だとか、このまま崎田と離れたくない、だとか色々考えてしまい、少しだけ躊躇したが萩山はシートベルトを外す。
「じゃあ……また」
「うん。仕事、頑張れよ」
萩山が背を向けると、エンジン音がすうっと遠ざかっていく。
振り返ることもできず、足元だけを見つめながら深呼吸をひとつした。
まだ、額の熱は消えていなかった。
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