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第25話
助手席に乗り込むと、車内に漂う芳香剤の匂いと二人分のコーヒーの匂いが混ざる。
崎田がハンドル近くのボタンを押し、エンジンがかかると、フロントガラスの外に街灯の光が流れはじめた。
BGMもつけず、しばらくは二人とも黙ったままだった。
何か話そうとして口を開きかけても、言葉が喉の奥で引っかかる。こんなに狭い空間なのに、距離の測り方がわからなかった。
数少ない信号で車が止まった瞬間、運転席の崎田がふっと笑った。
「……なんかさ、話したいことあったはずなんだけど、全部飛んだ」
照れたような声色に、思わずこちらも笑ってしまう。
「俺も」
そう答えると、崎田は少しだけこちらを見て、前を向いた。
しばらく走ったあと、ゆるやかな坂道で車が止まる。夜景というほどでもない、暗い街の灯が窓に映っていたが、パワーウインドウがわずかに下がるとその分明かりが消えていった。
「連絡先、聞くの忘れてたんだよな」
小さく息を吐いてから、崎田は続けた。
「萩山の職場は知ってるけど、仕事中に会ったり帰りを待つのも、周りからしたら変に思われるだろうし……もう会えないかと思った」
その言葉に、彼の優しさとこの関係のもどかしさと、さまざまな感情が胸に渦巻いて、胸の奥がきゅっと鳴った。
夜風が窓の隙間から入り、紙コップのコーヒーの香りを揺らす。
「俺も」
そう答えた萩山の声は、自分でも驚くほど静かだった。
何も言わなくても、再会を噛みしめるように、二人の呼吸が少しずつ近づいていった。
エンジンの音だけが、ゆっくりと時間を削っていく。互いの吐息がかすかに触れ合う距離なのに、、お互い何も言えなかった。
ただ、目が離せなかった。
崎田が小さく笑って、指先で紙コップを弄ぶ。
「……こういうの、なんか変だな」
「何が?」
「偶然に見せかけて、崎田と会えたこと。たぶん、俺……ちょっと嬉しかった」
その言葉が、思っていたより深く胸に落ちた。反射的に息を呑んで、窓の外へ視線を逃がす。
街灯の光がいやに眩しく感じた萩山は、また正面を向くと、視界の端で同じく正面を向いている崎田を盗み見た。
若干俯いているその横顔が、どうしようもなく綺麗だと思った。言葉より先に、体の奥が反応してしまう。
「……俺も」
萩山の掠れた声が、車内の静けさを震わせた。
「もう会えないと思ってた。だから、今ここにいるのが変な感じだ」
崎田は何も答えず、萩山の方をじっと見つめる。重苦しくなるような場面だが、不思議とその沈黙は苦しくなかった。
やがて、彼がスマホを取り出して、少しだけ口元を緩める。
「……じゃあ、もう、変じゃなくしようか」
画面に映るのは、連絡先の交換画面。
差し出されたスマートフォンを見つめているうちに、指先が触れ合った。
その瞬間、車内の空気がかすかに揺れる。
熱を帯びた呼吸が交わり、ほんの一瞬、互いの体温が重なる。
――やっと、繋がった。
そう思った瞬間、外の風の冷たささえ、心地よく感じられた。
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