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第29話

 翌朝、スマホにセットしていたアラームの音でようやく目が覚めた。いつもならアラームが鳴る前に覚醒してるのにな、と萩山の心は曇る。  寝つけなかったせいで体が重く、鏡の前に立っても顔色は冴えない。  それでも仕事に行かないわけにはいかず、萩山はいつものようにスーツに袖を通した。  午前中は特に何事もなく過ぎた。  窓口業務でΩの補助金関係の業務をこなした時に、何ともいえない胸の内のざらつきがあったぐらいで。何事も、なかった。  ただ、昼休みに休憩スペースで談笑していた同僚の言葉が、胸のどこかに小さく刺さった。 「なあ、今日萩山が担当してたあの人、すごく綺麗だったよな。この街だと、Ωって無理に働かなくても生活できるからさちょっと羨ましいよなあ」  同僚たちは笑いながら頷き、誰も悪気があるようには見えなかった。それがこの街では「当たり前」だから、仕方のないはなしではあるが。  萩山は手にしていた紙コップを見つめたまま、ただ「そうだね」と笑った。それ以上、何も言葉が出てこなかった。  いたたまれなくなった萩山が窓に視線を向けると、ふと崎田のことを思い出し、胸の奥がじわりと熱を帯びる。  あの夜からまだ数日しか経っていないのに、崎田の声や指先の感触が、現実よりも鮮明に思い出せてしまう。 ――働かなくてもいい、か。  その言葉が頭の中で繰り返されるたび、どうしようもない無力感が広がっていった。  定時を過ぎて、家に帰りつくころには、全身が妙に火照っていた。  母親が何か言っていたような気もしたが、無視して自室へ上がり、服を脱ぎ捨ててベッドに倒れ込む。  明らかに脈が速い。呼吸も浅く、喉の奥から熱が漏れそうになる。  まさか、また。  手のひらで自分の頬を押さえると、熱が確かにそこにあった。  視界が滲み、涙が自然と浮かぶ。止めたいのに、止められない。  熱感と恐怖で指先が震える中、萩山はなんとかスマートフォンを掴み、連絡先の一覧からひとつの名前を選んだ。 「さきた……ッ」  送信画面を開いて、何度も文字を打っては消す。  それでも、どうしようもなく身体が限界を訴えていて、最後にはもう、短く打つことしかできなかった。 『また、ヒート』  送信ボタンを押した直後、喉の奥が熱くなり、声にならない嗚咽が漏れた。  胸の奥に溜め込んでいたものが、音もなく崩れていく。返信が来るかどうかもわからない。  それでも、今この瞬間、頼れるのは彼だけだった。

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