44 / 66
第44話
そうして俯いていると、背後から微かな衣擦れの音が聞こえた。びくりと身体が強張る。
「……萩山」
低く、少し掠れた声が背中に落ちてくる。
振り返らなくても、それが崎田だと分かった。彼はきっと、まだ眠りから完全に覚めていない、親しい人間にしか見せないような表情をしているだろう。その顔を見れば、また心が揺らいでしまう。
「ごめん、起こしたか?」
萩山は、震える声を押さえつけるように絞り出すと、洗面台に手を置いたまま、鏡越しに崎田の姿を捉えた。
寝起きのせいか、いつもより幾分か優しい目つきで、彼は心配そうにこちらを見つめている。裸の上半身には、鍛えられた筋肉の影が落ちていた。
「ん?普通に起きただけだから気にしなくていいよ」
「そっか。それならよかった」
声を出すと、喉がまだ少し熱を持っていた。
「それはそうと……どうした?そんなところで。寒いだろ」
崎田はゆっくりと歩み寄り、背後から萩山の腰に手を回した。熱い体温が、洗面所の冷気を打ち消すように密着してくる。
「……寒くない」
「嘘。身体、冷えてるぞ」
崎田はそう言って、萩山の首筋に顔を埋めた。その熱に心まで溶かされそうになりながらも、なんとか持ち堪えた。
「なんで、ここにいるんだ」
萩山の問いに、崎田は答えず、ただ静かに深呼吸をした。
「……お前が、隣からいなくなったから」
一言、そう呟いたその声は、ひどく寂しそうに聞こえた。
まるで、αの本能がΩの不在に危機を覚えているかのように。その言葉は、萩山の理性をまた優しく崩していく。
この感情は恋なのか、依存なのか、それともαとΩの本能が起こす反応なのか。
もう、どうでもいい。
そう思った瞬間、萩山の指先が、鏡に映る自身の首輪の金具を、無意識になぞっていた。
崎田が、その指の動きに気づかないはずがない。
彼の腕に僅かな緊張が走ったのがわかった。
「……外して欲しいか?」
崎田が腕を前に回し、首輪の金具のすぐ上をそっと親指でなぞる。
その温もりが、鉄の冷たさとは対照的に、萩山の首筋に、強い快感と恐怖を同時に刻みつけた。
「……わからない」
絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
外せば、きっと日常に戻れる。しかし、崎田に噛まれてしまうというリスクもある。そうなると、この関係はαとΩとしての番という絶対的なものに塗り替えられてしまう。
「萩山由樹」という一人の人間は、「崎田遼のΩ」になる。
周りの目を考えると、恐怖だった。でも、それ以上に、渇望していた。
崎田は、萩山の曖昧な答えに溜息をつく。
「……わからない、か。ずるいな、萩山」
そう言って、崎田は萩山を抱き上げ、再び寝室へと連れ戻した。
もう何も聞かない。彼の唇が、首輪の上から萩山の首筋に強く、そして熱烈に吸い付いた。
それは、噛みつけないことへの、αの焦燥と愛情の最たる表現だった。
ともだちにシェアしよう!

