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第46話

 役場の朝は、いつもと変わらず静かだった。  コピー機の起動音と、遠くで鳴る電話のベルが、同じテンポで一日を始める。  萩山はデスクに座り、未処理の書類を一枚ずつめくっていく。  指先に触れる紙の感触が、なぜか妙に冷たく感じた。  隣の席の同僚が「昨日、雨すごかったね」と笑いかけてきた。  いつもなら軽く相槌を打って終わる話題なのに、今朝は喉がうまく動かなかった。  そもそも、雨なんて気にならなくなるぐらい行為に没頭していた事に気づき、胸の奥が疼いた。  曖昧に笑って、書類の文字に視線を落とす。 ――ここにいるのが、俺なんだ。  そう思いながらも、心のどこかが置き去りになったような感覚があった。  ペンを握る手に力を込めても、掴んでいるのは空気のように頼りない日常。  ふと、窓の外で風が揺らした花の匂いが、どこかで嗅いだ香りと似ていた。あの夜、崎田の部屋に漂っていた柔らかいシャンプーの香り。  それを思い出した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。  無意識に首に手をやる。  そこにはもう何もない。けれど、肌の内側ではまだ何かが脈打っている気がした。 ――これが、元の生活。  そう自分に言い聞かせても、心はうまく従わない。  規則正しく動く世界の中で、ただひとり、自分だけが違う場所に取り残されたような気がした。  昼休み、休憩室兼食堂はいつもより賑やかだった。  町内の制度を変更する発表が近づいてきているせいで、部署ごとの打ち合わせや雑談があちこちで飛び交っている。  萩山はトレイを手に、窓際の席に腰を下ろした。  カレーの湯気が上がる。けれど、ひと口も喉を通らない。  斜め前の席で、総務課の同僚たちが会話をしていた。 「新しい条例、またΩ関連らしいよ。番関係の申請を簡略化するんだって」 「へぇ、やっぱりαとΩ優遇だよな。Ωの側は変に目立つとすぐ噂になるし」 「うん、昨日もさ――」  言葉が耳に届くたびに、胃の奥が重くなる。  スプーンを持つ手が止まった。  誰も悪意を持って話しているわけではない。  けれど、そこに含まれる「当たり前」が、どうしようもなく冷たく感じられる。 ――俺は、どっちの世界にも居場所がない。  αとしての崎田と並び立つこともできず、Ωとして社会に甘えることもできない。βのふりをして、すべてを曖昧に押し進めるしかない。  ただ、日常という皮の中に押し込められ、息を潜めているだけだ。  午後の仕事に戻ると、上司が書類を抱えて声をかけてきた。 「萩山、この申請書、確認頼む。あ、そうそう。来月の健康審査、Ω枠での日程調整があるから、人事から連絡が行くと思う」  自分以外の誰にも聞こえない声量でかけられたその一言に、心臓が小さく跳ねた。  「Ω枠」という言葉が、職場の冷たい蛍光灯の下でやけに響く。  絶対に聞こえていないはずなのに、周囲の視線が一瞬だけ自分に集まった気がして、思わずうつむいた。  いつも通りの午後。  でも、どこかで“Ωとして管理される自分”を突きつけられた瞬間だった。  定時を過ぎても、萩山はなかなか立ち上がれなかった。  人が減った庁舎の中で、パソコンの画面を眺めながら、無意味にファイルを開いたり閉じたりする。  モニターに映る自分の顔が、疲れ切って見えた。  ふと、デスクの端に置いてあったスマートフォンが震える。  ディスプレイには、短い通知が一件。 『外、雨だけど送っていこうか』  差出人の名前を見て、息が止まった。  崎田。  何も送っていないのに、どうして今。  けれど、そのたった一文だけで、張りつめていた心が少しだけ緩んだ。  雨音が窓を打つ。  外に出ると、傘を持つ手が冷たく震えた。どこかで、車のライトが滲んで見える。  その奥に、一台の黒い車が静かに停まっていた。  見覚えのあるシルエットに、萩山の胸が、ゆっくりと締め付けられていく。 「……崎田」 「よお、お疲れ」

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