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第50話

「なあ、キスしてもいいか?」  二人でコーヒーを飲んでいるときに、大真面目な顔で聞いてきた崎田に萩山は目を丸くする。 「はあっ……?」 「はは、その顔いいね。冗談だって」  瞬間寂しそうな顔をした崎田の首元を掴んで、萩山の方からキスをする。勢いに任せてがちんと歯が当たったのが若干痛いが、目的は達成できたと内心ではホッとしていた。 「萩山?冗談って言ったろ、気持ち悪くなかったか?大丈夫か?」 「……別に、気持ち悪くないよ」 「まあ色んな人とキスぐらいしてるもんな、萩山も」 「違う」  萩山はコーヒーをドリンクホルダーに置き、どこまでものらりくらりと逃げようとする崎田の肩を掴んで、一瞬躊躇ってから口を開いた。 「一度しか言わないからな……俺、崎田のことが好きだ」 「それは、抱かれてフェロモンで……」 「そこまで馬鹿じゃないよ、俺も」  言い切ったあと、萩山は息を詰めた。車内は暖房が効いているのに、首筋だけがひどく冷えていく気がした。  しばらくの沈黙のあと、ハンドルに伏していた崎田がゆっくりと顔を上げた。 「……好き、って。どの好きだよ」  声は低く抑えられているのに、どこか怯えた色を含んでいる。しかし、萩山は構わずに続けた。 「……言わせんなよ。俺が誰にそんなこと言うと思ってんだ」  正面から見返せば、胸の奥が痛いほどに跳ねる。視線を逸らしたら、全部が嘘になる気がして、逸らせなかった。  崎田は、困ったように笑って、けれど笑いきれず眉尻を落とした。 「……ほんとのこと言うとさ。お前にそんなこと言われるなんて、思ってなかった。いや……思わないようにしてた」 「なんでだよ」 「だって……怖いだろ」  握ったハンドルの上で、崎田の手がかすかに震えていた。  あれだけ強くて余裕のあるαの姿が、今は弱い影を背負っている。 「俺のこと、ずっと忘れようとしてたんだろ。手紙も返さなかったし」  萩山が静かに口にすると、崎田は息を詰め、ゆっくり首を振った。 「……忘れたかったんじゃない。忘れなきゃ、って思ってたんだよ」  雨音と同じリズムで、彼の吐息が小さく震える。 「俺、あの頃からお前に触れたかった。でも、触れちゃいけない気がしてた。お前はあの頃まだΩってわかっていなかったし、今はβとして生きてるから……俺なんかの本能で縛っちゃだめだって……ずっと」  言葉の端々が、不器用にこぼれてくる。  αとしての自制と、幼馴染としての後悔が混ざっている。  萩山は、息を吸い込み、そっと告げた。 「……縛られたくなかったら、あんな首輪つけてねえよ」  自分でも何を言っているか分からなくて、言った瞬間に顔が熱くなる。  けれど崎田は、驚いたように目を瞬かせ、それから低く笑った。 「……じゃあ俺が外してよかったのか? あれ」 「よくない。外したけど」 「どっちだよ」  ふたりで同時に笑って、萩山は胸の奥がほっと緩むのを感じた。  けれど、すぐに真剣な空気が戻ってきた。崎田は両手でハンドルを離し、萩山の方へ身体を向ける。 「……本当に、俺を好きなのか?」  それは、まるで子どもみたいな問いかけだった。  萩山は躊躇わずに頷いた。 「うん。本気で好きだよ」  その瞬間、崎田の喉がかすかに鳴り、視線が揺れた。抑え込まれていた感情が、ひとつ息を吹き返すように。 「……萩山」  名前を呼ぶ声が、酷く優しい。 「じゃあ……もう一回、キスしていいか?」  冗談ではなく、今度はちゃんと本気の声だった。

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