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第55話
再び車が静かに発進すると、さっきまで満ちていた熱の余韻だけが二人のあいだに残されていた。
雨脚は弱くなったはずなのに、車内の空気だけはやけに濃く、重たく、甘い。
萩山は肩にかけられた上着をきゅっと握り、窓のほうへ視線を逃がした。
外の街灯が流れるたび、恥ずかしさがまた新しく胸に刺さる。
――戻れないところまで、来ちゃったんだな。
そんな言葉が喉までせり上がるが、飲み込んだ瞬間、隣から小さな溜息が聞こえた。
「……大丈夫か?」
気遣うというより、確認するような声。
自分の体調を案じているのか、それとも気持ちを気にしているのか、わからない。
「だいじょうぶ」
短く答えると、声が微妙に裏返ってしまい、さらに顔が熱くなる。
「そっか。ならいいけど……」
崎田の声も、どこかぎこちない。
先ほどまでの昂りが嘘のように、二人とも静かで、慎重だった。
それが逆に、身体の奥のあたたかさを思い出させてくる。
車内で響くのはワイパーの一定のリズムと、二人の呼吸だけ。
しばらくして、萩山の家の灯りが見えてきた。
いつもの帰り道のはずなのに、今日はただのルートではなく、二人が別れる場所として胸に迫ってくる。
「……着いたな」
車がゆっくり停止する。
シートベルトのバックルを外す小さな音が、やけに大きく響いた。
「遼、その……今日は、ありがとな」
自分で言った瞬間、また心臓が跳ねる。「遼」と呼ぶたび、距離が縮まるようで苦しい。
崎田は、驚いたように目を瞬かせたあと、花が咲くように優しく笑った。
「萩山……いや、由樹。お礼言うのは俺の方だって」
「なんでだよ」
「お前が……俺をちゃんと見てくれたから」
言われた意味がすぐに理解できなくて、萩山は反射的に視線を逸らした。
胸の奥が痛いほど熱くなる。
「……あんま、そういうの言うなって」
「なんで?嫌か?」
「嫌じゃ……ないけど……っ」
答えた瞬間、指先がまた熱を帯びる。
さっき触れていた場所の感覚がぼんやり蘇る。
ふと、ドアを開けようとした萩山の手首を、崎田がそっと掴んだ。
「おい、遼……?」
「……帰す前にさ。もう一回だけ」
そう言って、崎田は萩山の頬に触れる。親指がほんの少し触れただけで萩山の呼吸が止まり、そっと顔が近づく。
触れるか触れないかの距離で、囁く声が落ちる。
「……キスしていい?」
冗談ではなく、今度は本気の声色だった。
さっき車中で交わしたキスとは違う、静かで甘くて、恋の続きを確かめるようなお願い。
萩山は拒めるはずもなく、小さく頷いた。
「……うん」
唇が触れたのは一瞬だった。
触れただけの、優しい、やわらかいキス。でも、胸の奥が痛いほど熱を持つ。
離れたあと、崎田は照れ隠しのように髪をかいた。
「……また連絡する」
「うん……」
外の空気は冷たいのに、頬だけはずっと熱いままだった。
車のライトが遠ざかっていくのを見送りながら、萩山はそっとその唇に指を触れた。
――ヤバい、好きすぎるかもしれない。
自分でも笑ってしまうほど、素直な気持ちが胸に溢れていた
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