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夜空
夜、俺たちはバルコニーへ出た。
「乾杯」
片桐君は仕事帰りの白シャツ姿のまま、俺の持つ缶チューハイに缶ビールをこつん、と当てる。
彼の熟れた仕草とその魅惑的な笑顔から、俺は慌てて目を背けた。
「か、片桐君さ、今日飲んでたんでしょ?飲みすぎじゃない?」
どきどきとする気持ちを抑えながらそう話す。
「飲んでたって言っても、1時間くらいですよ」
片桐君はバルコニーの手すりに腕を置きながら、夜空を見上げ、缶ビールを口にする。
「何時間でも同じだよ、……仕事、大変なの?」
俺は隣に立つ片桐君の綺麗な横顔を見つめる。
夜空に視線を向ける彼の表情は、切なくも、ほっと安堵しているようにも見える。
「大変じゃないって言ったら、嘘になるけど」
片桐君は言って、口元を緩める。
「でも、今が一番幸せ」
にこ、と横に立つ俺に向け、片桐君が微笑みかける。
「……俺、ずっと、自分の存在意義が分からなかった」
ぽつり、片桐君が口を開く。
「両親が亡くなって、ひとりきりになって。引き取られた家では、俺のことを見てるわけじゃないってあるとき分かって。
じゃあ、誰だったら俺の事見てくれるんだろうって、そう思って…… ずっと、暗い空の下を歩き続けていた」
夜風に吹かれて、片桐君の黒い前髪が揺れる。
そっと顔をしたに向けた片桐君が、静かに語る。
「他人にも興味を持てなくて、やりたいことも特に無くて。愛されて普通に生きている人たちが、羨ましかった」
「…」
「だけど、それも結局誤解だったって分かって。
育ての母は俺を愛してくれていて、父も俺を見てくれていた。………でも、それに気づく前に、彼女はこの世から他界してしまった」
……え――
「俺はまた、失ってしまった」
片桐君は、手に持つ缶ビールを強く握り締める。
「俺は優秀なわけじゃないし、特別できた人間なわけでもないんだ」
「片桐君…」
感情を押し殺したような彼の声を耳にする。
「勝手に思い込んで、傷付いて。だけど本当は、俺の行動が、誰かを傷付けていた、……悲しませていた」
「そんなことないよ!」
顔を俯かせる片桐君を、大きく瞳を揺らしながら見つめる。
「…大丈夫。大丈夫だよ、片桐君」
悲しみに暮れる彼の背に、そっと手を当てる。
「間違うことは誰にだってあるよ、…こうやって、今俺に話してくれてるってことは、少なくとも片桐君は、逃げずにちゃんと亡くなったお母さんと向き合ってるってことだよ。それってすごいことだよ!」
「……」
「俺、何でも聞くよ、片桐君の話。何度でも、いくらでも聞くから。
俺はずっと、絶対、片桐君のそばにいるから」
…守るよ、片桐君。
片桐君の抱える悲しみも苦しみも、俺も全部、一緒に背負うよ。一緒に泣くよ。
――支えるよ。
片桐君が、俺の方へ顔を上げる。
小さく微笑む彼のその姿に、また胸が締め付けられた。
「俺はいつも、あなたに助けられてばかりいる」
片桐君はそうして、缶ビールを手にしたまま、おもむろに両手を広げる。
それに目を開かせて佇んでいると、
「――来て」
大好きな彼に、笑ってそう告げられた。
俺はそう言われた次の瞬間、片桐君の元へ軽く駆け寄り、彼の胸に両手を回して抱きついた。
あたたかい彼の感触に、目元から、溜まっていた悲しみの涙が零れた。
………この人が好きだ。好きで好きで、どうしようもない。
きっと、俺は彼を守るためなら、何だってできる。何だってする。
例えそれが、手を黒く染めることになろうとも、俺はきっと。
片桐君が俺を抱き寄せながら言う。
「絶対、星七さんだけは失わない」
白シャツから匂う彼の香りに、胸がどきどきとして、彼を想う気持ちが溢れていく。
彼のそばにいるだけで、心がほっと和らぎ、安らいでいく。
「必ず、あなただけは、守り抜いてみせる」
唇を重ねた途端、苦手なビールの香りと苦みが混じり合い、彼の吐息ごと、飲み込まされた。
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