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別荘⑵
「何か弾いてみましょうか」
片桐君は微笑を口元に含ませながら、被せていた布を取り、ピアノの蓋をゆっくりと開ける。
黒い椅子に慣れたように腰掛ける片桐君。
そして、彼がピアノの鍵盤に両手をそっと乗せた、次の瞬間。
滑らかで軽やかな、耳にすっと入ってくるような、心地よいピアノの音色が、部屋に響いた。
か、格好いい…。
下心とか、そういうの関係なく。
ピアノを弾く片桐君の――彼の姿に、魅せられる。
あ……この曲、知ってる。俺でも分かる曲。
誰の曲だっけ… ショパン?バッハ?モーツァルト?
ていうか片桐君、すごいな。
楽譜も見ていないのに、こんなにスラスラ…。
考えてみれば、大体にして俺と彼って、立ってるステージが全然違う。
稼いでる額も、生まれ育ってきた環境も、頭の良さも、多分何もかも。
……分かっていたのに、
手慣れたように美しいメロディを奏でる彼を前にして、その事実を改めて痛感したような気がした。
片桐君が、いつもより遠く感じる――
ふいに、ピアノの音色が止まる。
顔を上げると、こちらを向く片桐君とばちり、目が合った。
「星七さん?」
「あっ…… ごめん。ぼうっとしてた」
慌てて口を開いた。
(…馬鹿、何やってるんだ俺)
せっかく片桐君が演奏してくれてるのに。
せっかく、片桐君と別荘に来たっていうのに。
……しっかりしろって。
「俺も弾いてみたいな」
誤魔化すように笑って言うと、少し驚いた顔をした片桐君が、すっと椅子から立ち上がる。
「星七さん、何か弾ける曲あるんですか?」
腰掛ける俺の傍らに彼が立ちながら尋ねる。
「うんと…」
俺は視線を彷徨わせる。
「……ごめん。正直言うと、弾ける曲は…」
彼のことを見れずに、俺は顔を俯かせてそう答える。
すると、一瞬の間のあと、
「――じゃあ、俺が教えましょうか」
穏やかな声に顔を上げ、振り向く。
そばで俺を見つめ、にこ、と優しく笑いかける片桐君がいた。
「何か弾きたい曲ありますか?」
彼に聞かれ、しばらくうーんと悩む。
弾きたい曲、か……。 ――あっそうだ。
「片桐君の好きな曲、弾きたい」
「え?」
そうだ、それなら弾けるようになりたいし、片桐君にも聴いてもらいたいかも。
***
それから、約30分ほどが経った。
持ってきた荷物も無造作に床に置いて放置したまま、俺は片桐君からピアノ指導を受けていた。
「こう、かな」
「星七さん、飲み込み早いですね」
彼に褒められて照れ笑いをする。
「それと関係あるかは分からないけど… 実は、小さい頃にピアノ教室に通ってたんだ」
「ああ…どうりで」
「あっでも、すごく昔の話だけどね!」
「星七さんって何でもできるんですね」
会話中、横から囁かれた彼の一言に、俺は思わず手の動きを止めて目を大きくする。
「全然……!それを言うなら、片桐君だよ!」
振り返ってそう声を上げると、片桐君は軽く笑って目線を伏せるような仕草をする。
「俺は、そういう風に見せるのが上手いだけ」
ピアノの鍵盤に片手を添えたまま、彼が呟く。
「………怖いな。星七さんがいつか、俺の本当の姿を知って、俺に愛想を尽かさないか」
本当の姿?
視線を落とす彼を、俺は椅子に座ったまま見上げ見つめる。
「何言ってるの?片桐君、もう素の姿かなり晒してると思うけど…」
「…」
「それに俺…… 片桐君に愛想を尽かすことは、絶対にないよ」
自分で言いながら、顔に熱が昇る。
ああ…俺、嬉しいんだ。
片桐君が、俺に離れていって欲しくないって思ってくれてることが。
彼との距離が遠いと、勝手に思い込んでいた。
……俺、何してるんだろう。
目の前に映る彼に圧倒されて、自信なくして。
俺が彼を信じられなくてどうする。
俺が、――彼を見失ってどうする。
「俺……どんな片桐君でも、大好き」
恥ずかしいけど、ちゃんと伝えなくちゃね。
だって俺、この先何があっても、どれだけ辛いことがあっても、彼から離れるつもりなんて……
一切ないんだからさ。
俺をじっと見つめる彼の瞳に囚われて、頭から湯気が出そう。
俺は赤い顔のまま、彼からぱっと視線を逸らす。
「かっ…片桐君が、もしニートになったとしても、俺、片桐君が好きだよ」
「え?」
「俺ったくさん働くよ、養うよ!今住んでるところみたいなマンションには、住めなくなるかもしれないけど…… でも俺、頑張るよ!」
って俺、さっきからずっと何言ってるんだろうか。
「えっと…つまり、何が言いたいかって言うと、
片桐君が不安になるようなことは、これから先一切ないから安心してね、ってこと!」
ピアノの椅子に座ったまま、目を瞑って言う。
しばらくして、恐る恐る閉じた瞳を開けようとして――そばに立つ彼の腕にぎゅっと体を抱き締められた。
彼の付けた香水の匂いが鼻いっぱいに広がった。
「星七さん、もしかして俺のこと大好き?」
真上から、緩く笑いながら話しかけてくる彼の声が聞こえる。
「そ、そうだよ!」
うわぁぁ笑われてるっ、めちゃくちゃ笑われてる。
でも仕方ない。事実だし……。
「星七さん、悪い男に引っかかりそう」
愉しげに笑う彼がふと、顔を近づけてきて、
俺は顔から冷めきらない熱を感じながら、再び目を閉じる。
「…大丈夫。片桐君限定だから」
ぼそり、耳まで赤くしながら発したそのとき。
彼の熱い唇がそっと、俺の唇を覆うのを感じた。
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