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第3話
神崎がゆっくりとバーバーチェアから立ち上がる、その微かな音が宮原を現実に引き戻した。長身の神崎が立ち上がると、宮原より頭ひとつぶん視線の位置が高くなる。
神崎は、宮原の目の前に立つと、真っ直ぐにその目を見つめた。
「一緒に来てほしい」
シンガポール、と聞いた時から、その言葉をどこかで予想していた。
身体を重ねる関係になって以来、この男は幾度かこうして、宮原が引いた境界線を真っ向から越えてくることがあった。
『宮原さん、あんたが欲しいんだ』
『宮原さんは俺のことどう思ってるんだ?』
その都度、宮原はいつも通りの穏やかな笑みで受け流した。
『ご要望にはいつでもお応えします』
『大切なお客様ですよ、神崎様』
自分はあくまでもただの理容師で、神崎はただの客。この店の奥、狭いバックルームの中で、かりそめの時間を共有しているだけ。勘違いをしてはいけないし、させてもいけない。
だから宮原は今夜も、自らのルールどおり完璧に、いつもと同じ微笑を浮かべた。
「シンガポールにも、腕のいい理容師はたくさんおりますよ」
言いながら背を向ける。これ以上視線を交わし続ければ、完璧なカーブを描く口角が震えてしまいそうだった。シンガポール、と聞いた時から身の裡にざわめく鼓動は、未だに少しもおさまってくれない。
レジカウンターの手前で足を止め、静かに、深く呼吸をする。
「……神崎様の今後のご活躍、心よりお祈り申し上げております」
再び神崎へ視線を戻す。
「本日は、お代は結構でございます。ご栄転のお祝いとしては、些少ではございますが」
今夜が、最後。
先刻の神崎の声が耳の奥に蘇る。体側で背筋と同じくきっちりと伸ばしていたはずの指が、拳を作る。
「長らくのご愛顧、ありがとうございました」
震えそうになる声を完璧に制御し、静かに告げる。見送る姿勢はいつも同じ、きっちりと腰を三十度倒した――かつて師匠にも褒めてもらった、人形のように正確な礼。
小さく息を吐く音。そして、革靴が床を踏む、硬質な音。
宮原の前を、大きな影が通り過ぎようとする――しかしその影は、宮原の前でぴたりと止まった。それきり動かない。
訝しんで顔を上げると、神崎が真ん前に立っていた。
はっと身を強張らせる。同時に、熱い指に顎先を囚われた。
「――ッ!?」
抗う間もなく、乱暴に口付けられる。次いで強引に侵入してくる舌。愕然と目を見開く。
キス。
この、『店』の中で。
今まで数えきれないほど唇も身体も重ねてきたが、それはバックルームでのこと。『店』の中では、あくまでただの『理容師』と『客』。それは宮原が暗黙のうちに敷いたルールで、今まで神崎もその一線を踏み越えることはなかった。
それなのに。
「ン…ッぅ――、」
動揺する間にも好き勝手に口内を蹂躙され、不覚にも身体の奥にじわりと火が点きそうになる。その自らの反応に、羞恥と狼狽が限界を超えた。
「おやめください!」
渾身の力で神崎の身体を突き飛ばしていた。今までどんな時も丁重さと節度を失ったことのない宮原にはありえない、剥き出しの拒絶。
軽くよろめいた神崎は、しかし少しも動じた様子を見せず、ただ静かに凪いだ瞳で宮原を見据えた。その冷徹な視線に、宮原は喘ぎを殺して後ずさる。
「逃げるのか?」
淡々とした口調が却って不気味に響いた。言葉を失う宮原の視線の先で、神崎は、無造作に自らのネクタイを解いた。
「十二年間、ずっとあんたは俺から逃げ続けてきた。……まだ逃げるのか?」
宮原は呆然と立ち尽くした。ここは自分の城であり、絶対の聖域であり、安全圏のはず。
ゆっくりと、神崎が歩み寄ってくる。一歩、また一歩と距離を詰められながら、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けない。目の前に立った神崎の口元に浮かんでいたのは、静かで優しさすら帯びた――支配者の笑みだった。
「残念だったな」
その声は、地獄の底から響くように、絶望的に柔らかかった。
「もう、逃がしてやるつもりはない」
熱い掌が宮原の腕を掴む。抗えない力に引き摺られ、宮原の足が縺れた。転びそうになった身体はすぐ、逞しく熱い腕に抱き留められる。
神崎の匂い――柔軟剤の清潔な香りと、その奥に微かに息衝く肌の匂いが一気に宮原を満たす。酩酊しそうな感覚に、堪らず両手が神崎のシャツを掴んだ。
「っ!?」
その一瞬の混乱に付け込むように、神崎は、縋る宮原の身体を軽々と引き剥がした。踏ん張る間もなく突き飛ばされる。その先には、壁面で存在を主張する木枠の大きな一面鏡があった。
曇りひとつない、丹念に磨かれた鏡。決して素手で触れることなどない潔癖な表面へ無様に掌をつき、何とか身を支える。
「何をなさいます!」
慌てて神崎に向けて身を返す弾みで、鏡の前に整然と置かれたローションの瓶や消毒液のボトルを払い落としてしまった。派手な音を立てて床に散らばるそれらを顧みる余裕もなく、歩み寄る神崎を睨み付ける。
神崎は、そんな宮原の怒りの視線など意にも介さなかった。その片手には、先ほど解いた神崎自身のネクタイが絡み付いている。
「っ痛、ッ…――!」
逃げようとする動きは封じられ、手首を捻り上げられる。微かに走った痛みに宮原の眉が歪む。
まさか、と抗おうとしたが、一瞬遅かった。上質なシルクが手首に食い込む。
「痕が残っちゃまずいか」
少しもまずいと思っていなさそうな、のんびりとした口調だった。
あっという間に両手首をひとまとめに括られ、信じられないものを見るように神崎を見上げる。この先の展開に恐怖すら覚え始めた。
「……神崎様…?」
立ちはだかる神崎の長身に檻のように鏡へ追い詰められたまま、怯えて上擦りそうになる声を懸命に制御し、探るように呼ぶ。
神崎が無言で宮原を見下ろした。凪いだ瞳。
「心配するな。身体を傷つけるつもりはない」
胸元へ伸ばされた指先は、寧ろ恭しくすらあった。その落差に背筋が粟立つ。
「あんたのネクタイを解いてやりたかったんだ。ずっと」
子どものように楽しそうにネクタイを解く指を見詰めながら、宮原の胸が空しく喘ぐ。状況が、理解を超えている。
解いたボルドーのネクタイを右手に絡めたまま、神崎の手は流れるように宮原のベストへかかった。あっさりとボタンが外され、その下のサスペンダーを剥ぎ取られる。
ワゴンへ放られたそれがトレイとぶつかる音を聞きながら、宮原は、この状況を打開する方法を懸命に思案した。
「――ここで、するおつもりですか。私の自由を奪って、好きなように乱暴する、と?」
口を開いたのは、ただの時間稼ぎだった。とにかく、少しでも神崎のペースを乱し、自分のターンを奪わなければ。
神崎はどこか感心したように軽く目を見開き、宮原を見下ろした。
「こんなことされて、まだ敬語使うのかよ。あんたらしいな」
「お客様ですから」
「――……」
神崎の瞳が、す、と細められる。宮原の胸の奥がなぜか微かに軋んだ気がしたが、顧みる余裕はなかった。
それよりも、神崎は決して激昂しているわけではない、と確信した。今ならまだ話し合いの余地はある。そう推測し、呼吸を整える。
「神崎様」
静かに呼ぶと、神崎は返事をせず、視線だけで先を促した。僅かに瞳を細めた、先刻の表情のまま。
みっともなく傾いでいた姿勢を正す。いつものようにぴしりと、背筋を真っ直ぐに。
「わかりました。どうぞお好きなように」
「――ほう?」
神崎が低く呟いた。早鐘のように鳴り響く自らの鼓動音を聞きながら、宮原は口端を緩めた。
「私に至らないところがあったのでしょう。…認めます。最後に好きにしたいと仰るならお止めはしません」
ここまで長い言葉を向けるのは、十二年の中でも珍しい。いつも、互いの間には最低限の言葉しかなかった。――宮原が、そう仕向けていた。決してみだりに言葉を重ねないように。互いの余計な部分へ踏み込むことのないように。
視線の先で、神崎の表情は微動だにしない。
「ですが、――ここでは、駄目です」
微かに、語尾が震えた。両手首を括られたまま、指をきつく握り込む。
「…バックルームでしたら、神崎様のご要望に何なりとお応えします。どうか」
ご要望。
神崎の凪いでいた瞳に、初めて明確な怒りの火が宿った。
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