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第1章-1 業界の日常 ― Ωの孤独
―― 朝の編集室、消えない棘
朝いちの編集室は、紙の匂いが濃い。
昨日のコーヒーは、黒い湖みたいに冷えている。
湯気のない紙コップで、手を温めた。
朝会。
ホワイトボードに進行表。
赤い線が、眠い呼吸みたいに上下する。
「Ωはさ、体調読めないから」
「ヒートで飛ぶと段取り崩れるんだよね」
笑って頷く。
早く終わらせるいちばんの方法は、これだ。
喉の奥の小さな石は、今日も飲み込めない。
会議が散って、人の流れが廊下を押す。
備品庫の鍵を胸ポケットに落とし、台車を引いた。
床のワックスが光を伸ばし、靴裏を少し滑らせる。
コピー機のトレイを開け、用紙を補充する。
インクの匂いは、薄く甘い。
その甘さだけで、胸の鈍さが少し和らいだ。
休憩スペースの端で、笑い声。
「番決まったら退職するんでしょ?」
「スポンサー席、紹介してやろっか」
紙コップの縁に歯を当てる。
音が出そうで、やめた。
口角だけ上げて、やり過ごす。
編集ブースのモニタに、未完のタイムライン。
波形が青い海みたいに寄せ返す。
カットの継ぎ目に、手の熱だけが残った。
廊下でADが走り抜け、台本の端が風を切る。
非常ベルの点検音が一度だけ鳴って、すぐ消えた。
時計の針が、九に重なる。
メールの通知。
《午前素材、到着遅れ》
指が勝手に返事の予測変換を呼び出す。消す。
また打ち直す。消す。ため息が、短く落ちる。
非常階段の踊り場で、手帳を開く。
「恋人」と書いて、線で消した。
黒い筋だけが、紙の繊維に沈む。
欲しかったのは、言葉だ。
印じゃなく、言葉。
俺を呼ぶための、たった一言。
階段室に風が入り、ページの角をめくる。
金属の匂い。
ポケットの鍵が触れ合って、小さく鳴った。
戻ると、編集室の白が少し冷たく見えた。
タイムラインの上で、秒数が跳ねる。
カットを一つ削り、息を置く。
誰かが近くで止まる気配。
モニタの縁に、影が一枚、かぶさる。
顔は見ない。見なくても、分かる。
空調の風が流れを変える。
画面の光が、肌の上で色を失う。
指が、マウスの上で静まった。
――足音が、すぐ後ろで止まった。
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