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第1章-3 業界の日常 ― Ωの孤独

―― 夜仕度、薄れる縁 夕方。 搬入の列がスタジオ前で折れ曲がり、ケーブルの束が床を這う。 ガムテの端を折り、番号を書いて、踵で軽く押さえた。 汗が乾くと、シャツに塩の地図が浮く。 給湯室で紙コップに水を落とす。 金属の味。喉の砂利が、一粒だけ転がった。 通路の奥で、αの先輩が笑っている。 目が合った途端、鼻を鳴らされた。 「抑制剤、切れてない?」――軽い調子。 返事より先に、脈が速くなる。 ポケットの中で、錠剤のシートが擦れた。 角が一箇所欠けている。昨日、慌てて抜いた跡だ。 春臣が通りかかる。 書類の束を片腕に抱え、こちらは見ない。 けれど歩みは、俺とαの間を正確に割った。 紙の角が光を拾い、白い線が一瞬だけ走る。 笑い声が遠のいた。 タイムテーブルの端に赤い修正が増える。 小走りで編集室へ戻ると、タイムラインの上で秒数が跳ねた。 ひとカット削り、息を置く。 指の熱がマウスに残る。 自販機の列。 硬貨の落ちる音が、胸の底まで響いた。 冷たい缶を受け取る。 掌で汗が静かに退く。 チャットが灯る。 《二十一時、会議室。確認》 短い一行に、胸の糸が少しほどける。 間違いだと分かっていても。 会議室のガラスに夜景が滲む。 資料を揃え、ペン先を整える。 時計の針が九に重なる。 ドアの開閉音。 春臣が入り、椅子の背を押し、資料をめくる。 二人分の呼吸が、白い部屋で交差した。 「ここまでやれば、今日はいい」 視線は窓へ滑る。 街の明かりが、編集室の白より遠く揺れた。 欲しい言葉は今日も落ちない。 それでも、胸には別の四文字が残る。 助かる。――それだけで、歩ける夜もある。 廊下に出る。 空調の風がわずかに甘く感じられた。 ポケットの鍵が、指に触れる。 錠剤のシートが、その下で薄く鳴る。 エレベーターの到着音が遠くで弾ける。 次の服用時間を頭の端で計算する。 ――間に合うはずだ。 そう言い聞かせ、数字を並べる。 並べても、胸の熱は薄まらない。 階段の方へ向き直る。 足音が、わずかに速くなった。 皮膚の下で、温度がゆっくり上がる。 袖口に風が入り、血の匂いが一瞬だけ濃くなる。 非常階段の踊り場で立ち止まる。 冷たい手すりに額を寄せ、数えて、吐く。 ページの角が指に触れた。 手帳を開く代わりに、そっと閉じる。 ――効き目が、もたない。 ――言葉は、まだ与えられない。 ――夜が、本当に動き出す。

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