5 / 16
第2章-1 夜のきっかけ ― 抑制剤の切れる夜
―― 匂いに気づかれる前に
夕方のスタジオは、熱が残る。
ライトの光が遅れて肌に刺さり、汗はもう乾いて塩の筋だけを残した。
ポケットの中で、錠剤のシートが薄く鳴る。
次の服用時間まで、まだ少しある。
数えて、足し算して、無理やり答えを出す。
――もつ。そう言い聞かせて、台本の角を整えた。
通路の奥から、笑い声。
αの先輩が二人、機材ケースに腰を掛けて缶を転がしている。
金属の音が床を跳ねて、こちらの靴裏まで冷たくする。
近づいた瞬間、鼻が動くのが見えた。
「……お、匂うじゃん」
軽い調子。軽いほど、足元が不安定になる。
「抑制剤、切れかけ?」
片方が肩を叩こうとして、わざと止める。
止めた手が、空気に跡を残した。
「現場止めんのだけは勘弁な」
笑って言う。笑っていない。
喉の奥の石が、また大きくなる。
返事より先に、脈が速い。
指がポケットの内布をつまんで、離せない。
冷たい空調が、皮膚の表面だけを撫でる。
「送ってこっか?」
壁際に追い込むほどの優しさ。
片手が肘にかかる。逃げ道の角度を計算する。
「大丈夫です。まだ効いてます」
言葉に自分の声が追いつかない。
足の裏で、床のワックスが薄く滑る。
先輩の指が近づく。
触れてはいないのに、触られた場所が熱くなる。
階段室の方へ目をやる。扉まで五歩。遠い。
「ヒートで倒れられても困るしさ」
指先が袖に触れて、そこだけ温度が変わる。
息を数える。四、五、六――合わない。
通路の向こうで、台車が転がる音。
ADが走り過ぎ、ケーブルの線が床に蛇を描く。
一瞬だけ、視線がそちらへ逸れた。
その隙に一歩抜ける。
が、すぐに壁。ポスターの角が肩に当たる。
紙の端が皮膚に触れ、細い痛みが残った。
「そんなに逃げなくていいのに」
笑いは、また音だけ軽い。
肘を取られ、身体の向きを変えられる。
ポケットの中で、錠剤が指に当たる。
すぐ飲めば楽になる――その考えが、危ない。
ここでは飲めない。飲んではいけない。
「顔、赤くなってるよ」
指が頬に伸びる。
距離が、もうない。
そのとき、紙の束が視界を横切った。
白い角が光を拾って、細い線を描く。
二人の間を、すっと割る動き。
「そこで何をしてる」
低くはない。高くもない。
ただ、仕事の言葉だけが正確に落ちる。
春臣が書類を片腕に抱え、もう片方の手でスケジュール表を示した。
「搬入ルートを塞ぐな。今、押してる」
事務的な二行。それだけで、通路の空気が動いた。
αの先輩が肩をすくめる。
「心配しただけっすよ」
笑いの温度が、さっきと違う。
春臣は俺を見ない。
スケジュール表の赤線だけを指で叩く。
「ここ、五分押し。無駄を作るな」
指示。
それだけのはずなのに、肘の上の重さが消えた。
呼吸が、ゆっくり戻る。
「真咲、ケーブル番号の再確認。三分で」
名前が落ちる。
救急箱みたいに、短く、効く。
「はい」
声が出た。
喉の石が、少しだけ小さくなる。
αの先輩たちは缶を拾い、通路の端へ退いた。
金属の音が遠のく。
空調の流れが、また普通に戻る。
春臣は書類を返し、歩き出す。
俺は番号表を抱えて、反対方向へ動く。
視線は交わらない。交わらなくていい。
それでも、足取りが軽いのは事実だった。
数えて、並べて、確認する。
一、二、三――呼吸が追いつく。
ケーブルのタグを見ていると、視界がふっと滲んだ。
焦点を戻す。
危ない。時間、あとどのくらいだ。
錠剤のシートに指を当て、数える。
次のマークまで二十分。
――そこまでは、持たせる。
背後の壁時計が、小さく一回鳴った。
現場の音が、ゆっくりまとまっていく。
人の流れが、正しい方向へ動き出す。
メモを折りたたみ、胸ポケットに差す。
喉の奥に残る砂利は、まだ全部は消えない。
けれど、歩ける。
春臣の声は、最後までこちらを向かなかった。
それでも、言葉だけが鎖みたいに残る。
――「三分で」。短く、確かに。
通路の端で振り返る。
さっきのポスターが、肩の高さで揺れていた。
紙の角はもう痛くない。
階段室の扉を開け、冷たい空気を吸う。
数えて、吐く。
掌の汗が、少しずつ乾く。
まだ、夜は始まっていない。
それでも、始まる手前の匂いはある。
――抑制剤の効き目が、薄くなっていく。
次の一歩で、何かが決まる。
ともだちにシェアしよう!

