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第2章-2 subの刻印 ― βの檻に堕ちる
―― 言葉が落ちるたび、身体が従う
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残業の明け方、編集室は沈黙していた。
蛍光灯の白が、机に置かれた資料の角を鋭く照らす。
俺は椅子に沈み、胸ポケットの抑制剤を指でなぞった。
効き目は限界。
掌の内側に熱が集まり、鼓動が指先まで届く。
数字を並べて、無理に平静をつくる。
一、二、三――けれど数は途中で千切れる。
背後で紙の束が落ちる音。
視線を上げるより先に、気配が近づく。
振り返れば、春臣がそこにいた。
上司の顔。ディレクターの眼。βのはずの、その人。
「……まだ帰ってねぇのか」
短い言葉が、額に触れる前の氷みたいに落ちる。
返事が遅れる。喉が渇きすぎて声が出ない。
春臣の視線が俺の胸ポケットをかすめる。
指が伸び、抑制剤のシートを取り出した。
銀の表面が蛍光灯をはね返し、光が狭い部屋を裂く。
「これで凌ぐつもりか」
ただの確認なのに、逃げ場を塞ぐ鎖になる。
俺は首を横に振る。
否定にも肯定にもならない動きで。
春臣はシートを机に置いた。
音は小さい。けれど、脈より強い。
「……欲しいのは、薬じゃねぇんだろ」
耳の奥で何かが切れた。
声じゃなく、命令でもない。
それでも身体が反応する。
膝がわずかに震え、座面の縁を握りしめる。
春臣の手が肩に置かれる。
重さはない。なのに背中まで熱が落ちる。
「立て」
一言。
息を呑む間に、身体が勝手に従っていた。
視線が交わる。
そこに恋人の色はなく、支配だけがあった。
けれど、拒めない。
拒むよりも先に、胸の奥で何かが安堵している。
春臣が近づく。
机の角に腰を押し当てられ、逃げ道が消える。
「言え。欲しいものは何だ」
言葉を奪われ、息だけが洩れる。
熱が声帯をすり抜け、意味を結ばない。
代わりに、春臣の指が首筋をなぞった。
皮膚が震える。そこに“印”はないはずなのに、
触れられた瞬間、存在しない鎖がはっきり形を取った。
「……ほら、従ってる」
囁きでもなく、怒号でもなく。
ただ、事実として告げられる。
胸の奥で、遅れて沈む。
痛みと安堵が同時に落ちて、
俺は笑うことも泣くこともできなかった。
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夜が白み始める。
窓の外に街が薄く浮かび上がる。
印は刻まれていない。
それでも、身体は命令に縛られていた。
――言葉こそが、俺の檻だった。
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