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第3章-1 甘やかし ― タオルと水の夜

―― 優しさの形をした檻 ⸻ 打ち上げの店を出たとき、夜の街はまだざわめいていた。 看板の光はにじみ、路地の湿気は喉に重い。 笑い声に紛れながらも、俺の足取りは一人だけ違う方向へ向かっていた。 春臣に呼ばれた。 理由は一言、「眠れねぇだろ」。 それだけ。 タクシーの窓に映る顔は疲れ切っていて、 ポケットに入れた抑制剤のシートがやけに硬く感じられた。 ⸻ マンションのドアを開けると、静けさが全身を包む。 玄関にはタオルとペットボトルの水が置かれていた。 最初から俺が来ると分かっていたみたいに。 「顔、赤いな」 春臣の視線が短くかすめる。 その一言だけで、足の力が抜けそうになる。 差し出された水を開ける。 キャップが回る音が小さく響き、 冷たい水が喉を落ちると、胃の奥が一瞬で満たされた。 タオルで額を押さえると、 乾いた布地が体温を吸っていく。 何でもない仕草なのに、恋人の優しさと変わらなかった。 「……ありがとうございます」 言葉は震え、すぐに空気に消える。 春臣は答えず、ただブランケットを俺の肩に掛けた。 ⸻ ソファに腰を下ろす。 机には書類が散らばり、蛍光灯の白が紙の端を照らしている。 春臣は向かいの椅子に腰かけ、黙々と資料を眺めていた。 静かな時間。 ブランケットの重みだけが確かで、 俺の胸の奥を少しずつ緩めていく。 「今日の現場……先輩に、また言われました」 口から零れた言葉に、自分でも驚いた。 愚痴をこぼすつもりなんてなかったのに。 春臣は顔を上げない。 ペンの先で書類を叩くだけ。 「……気にすんな」 その言葉に救われる一方で、 心のどこかが“もっと”を求めていた。 「でも、俺……」 「真咲」 名を呼ばれただけで、残りの声が凍りついた。 拒絶でもなく、慰めでもない。 ただ名前が落ちただけなのに、胸が満たされる。 ⸻ 目を閉じると、過去の記憶がふっと浮かぶ。 初めて春臣に助けられた夜。 抑制剤を切らしかけ、スタジオ裏で倒れそうになった俺に、 「水を飲め」とだけ言ってペットボトルを差し出した。 その時も、同じだった。 命令でもない、甘やかしでもない。 けれど確実に縛られる声。 今も変わらない。 結局、俺はその一言を待ち続けている。 ⸻ ソファに身を横たえると、まぶたが重くなっていく。 春臣は机に向かったまま、背を向けている。 それなのに、気配だけがこちらを包んでいた。 「眠れ」 短い一言。 ブランケットの下で心臓が跳ね、安堵に変わる。 恋人じゃない。番でもない。 それでも、この一言があれば眠れる。 矛盾だらけの甘やかし。 その甘さに、俺は抗えない。 ⸻ 夢に落ちる直前、耳の奥に残ったのはあの断言だった。 「俺以外は許さねぇ」 矛盾と優しさの両方が、同じ檻を形づくっている。 そして俺は、逃げたくないと思ってしまった。

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