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第3章-2 放置 ― 書類に背を向ける背中

―― 甘さと冷たさが同じ檻を作る ⸻ 翌日も残業だった。 スタジオの照明は落ち、機材の影が床に長く伸びている。 みんなが帰ったあと、会議室には俺と春臣だけが残っていた。 資料の山を前に、ペンの音が一定のリズムで響く。 その向かいに座っていながら、俺はほとんど存在していないみたいだった。 「……ここ、修正入れとけ」 春臣の視線は書類から動かない。 ペン先が線を引き、俺のノートへ矢印が落ちる。 「はい」 返事は小さくても、空気の奥に吸い込まれていった。 ⸻ ブランケットに包まれて眠った昨夜が幻みたいだ。 タオルと水の温度がまだ体に残っているのに、 今日の春臣はまるで別人だ。 俺はただの部下。 ディレクターとアシスタント。 それ以上でも以下でもない。 ――恋人じゃない。 分かっていたはずなのに、胸の奥がざわついていく。 ⸻ 「お前、手が止まってる」 春臣の声が飛ぶ。 顔を上げると、背中越しに冷たい光が差し込んでいた。 「すみません」 慌ててペンを走らせる。 紙の上に黒い線が増えていくのに、内容は頭に入ってこない。 机に落ちる影。 春臣の肩が小さく上下する。 ため息ひとつで、距離がさらに遠くなる。 ⸻ 休憩のタイミングで、俺は口を開いた。 「昨日は……ありがとうございました」 春臣は顔を上げない。 ページをめくる音だけが答えになった。 「……昨日?」 小さく呟き、すぐに書類へ戻る。 覚えていないのか、覚えていて無視しているのか。 どちらにせよ、胸の奥が冷たく締めつけられた。 ⸻ 夜が更け、会議室の窓に街の光が滲む。 俺は一度ペンを置き、深呼吸を試みた。 でも、肺に入ったはずの空気はすぐに溶けて消えた。 春臣の背中が、壁のように立っている。 手を伸ばしても届かない。 恋人の距離なら触れられるはずなのに――俺には、その資格がない。 「もう上がっていいぞ」 唐突な言葉。 命令でも労りでもない。 ただ俺を突き放すための一文だった。 「……はい」 返事の声が、やけに薄く聞こえる。 ⸻ 会議室を出ると、冷たい廊下の空気が肌に突き刺さった。 タオルの温度も、水の冷たさも、すべて遠い。 それでも足を止めなかったのは―― 春臣の言葉がなくても、もう俺は離れられないと知っていたからだ。 ⸻ 甘やかしと放置。 その両方が、同じ檻の内側を作っている。 そして俺は、どちらからも逃げられない。

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