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第4章-1 揺らぎ ― 縁談の封筒
―― 正解の重さと、胸に沈むノイズ
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昼休みのロビーは、光沢のある床がやけに広く感じられた。
人の出入りが途切れた瞬間、机の上に置かれた封筒だけが目立っていた。
「真咲くん、これ……君に」
同僚がそっと差し出したもの。
開ける前から、中身の冷たさが伝わってきた。
封を切ると、活字の並びが目に飛び込む。
――縁談。
相手はα。
名のある家、安定した職。
“Ωならこうあるべき”という正解が、紙に整然と並んでいた。
笑顔で祝福してくれる人の顔が浮かぶ。
けれど同時に、心臓が強く反発する。
脈が速くなるのは、期待のせいじゃない。
圧迫感に押し潰されるせいだった。
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「羨ましいよな、安定してて」
背後から同僚の声が落ちる。
「Ωはやっぱりαと組むのが一番だ」
言葉に刃はなかった。
それでも、胸に突き刺さるのは簡単だった。
俺は「そうですね」と笑って返した。
けれどその笑顔は、鏡に映せばすぐに剥がれ落ちるだろう。
封筒を閉じても、匂いが残る。
紙の匂いじゃない。
“正解”という名の冷気が、指に張りついて離れなかった。
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夜。
机に広がる資料の隅に、その封筒を置いた。
春臣は無言で手元の書類をめくっている。
蛍光灯の白に照らされた横顔は、揺るぎもせず、淡々としていた。
「……縁談を勧められました」
勇気を絞り出すように言った。
声はかすれて、書類の上に落ちただけで消えた。
春臣は顔を上げない。
ただペン先で資料を叩く。
「そうか」
それだけ。
予想していたのに、胸の奥がざわつく。
もっと違う答えを期待していた自分が、愚かに思えた。
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沈黙が続いた。
窓の外で赤いテールランプが流れ、夜の街が小さく震えている。
「俺、……行った方がいいんですか」
声が勝手に震えた。
答えを求めているのに、求めてはいけない気もしていた。
春臣はようやく視線を上げた。
鋭い目が、封筒を一瞥する。
そして俺に、淡々と突きつける。
「行きたきゃ行けよ」
胸に穴が開いたみたいに、空気が漏れる。
拒絶でもなく、承認でもなく。
突き放すだけの一言。
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封筒の紙が膝の上で震えていた。
それでも立ち上がれなかった。
足は重く、声は出ない。
春臣は机の書類を揃え、時計を一瞥する。
「戻ってこいとは言ってねぇ」
一拍。
「……どうせ戻ってくる」
その矛盾が、鎖より重かった。
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ロビーで受け取ったときより、封筒は軽くなっていた。
中身は変わらないのに、重さを決めるのは言葉だった。
俺にとっての“正解”は、紙じゃなく、この檻にあった。
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