11 / 16
第5章-1 逃げ ― 外の自由は甘さを持たなかった
―― 朝焼けの街は、救いの温度を持たない
朝焼けの街を、一人で歩いた。
ビルの硝子に、眠っていない自分が薄く映る。
胸ポケットの中で、縁談のカードが角を主張していた。
「離れれば楽になる」
そう言い聞かせるたび、呼吸は浅くなる。
足は前に出るのに、鼓動はずっと後ろに取り残されていた。
駅の売店で水を買う。
キャップを回す手が、やけに震える。
冷たい水が喉を落ちても、渇きは残るだけだった。
⸻
数日、予定を詰めてみた。
会食。収録の立会い。クライアントへの挨拶回り。
空白を埋めれば、胸の穴も塞がると思った。
夜、紹介されたαと会う。
仕事の話は途切れない。
相手の笑顔は、きれいに整っている。
席の端でグラスを持つ手だけが、終始冷たかった。
「Ωなら、番で安定するのが一番だよ」
相手は善意で言っている。
善意ほど重い石はない。
テーブルの下で足が痺れ、言葉は笑顔の形だけをなぞった。
⸻
会計を終え、店を出る。
タクシーのドアが閉まる音が胸の奥まで響く。
スマホの画面に、未送信の文章がいくつも残っていた。
――『今日、遅くなります』
――『今、帰ります』
宛先はどこにも設定されていない。
送る相手を思い浮かべるだけで、指が止まった。
⸻
別の夜、別の店。
「恋人はいるの?」
「いません」
相手の表情が少し柔らかくなる。
それを見て、心のどこかが軋んだ。
“恋人”という語の輪郭が、喉に引っかかったまま降りていかない。
歩道橋の上で風に吹かれる。
街の光は遠く、足元のアスファルトだけが現実だ。
欄干に額を当て、数えて、吐く。
息は数だけ整って、意味は戻らない。
⸻
仕事は回る。
タイムラインは進む。
カットの継ぎ目は正確だ。
ただ、呼ばれる名前がない。
編集室の白い光が、視界の端で揺れる。
椅子の背にかけた上着から、社員証の影が床へ落ちる。
――名前を、呼んでほしい。
それだけが、過去と現在を繋ぐ唯一の橋だった。
ともだちにシェアしよう!

