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第5話
迎良杜を初めてサッカー教室で見た時。
まるで予知夢が当たったようなそんな気持ちになった。
彼とはいつか出会うことになる。そのことを自分は知っていた、そう感じたのだ。
ただ、子供の頃はそのことに深い意味など考えなかった。
彼とはきっとなにか縁があるのだ。
そう思った。
ーー
「え・・」
創の言葉を聞いて良杜の表情が凍るのがわかった。
当たり前だ。Ωにとって首筋を噛まれるということが何を意味するのか。そんなことは創にもよくわかっている。
「・・迎、俺は」
一歩前に出て近づこうとした時、良杜を庇うように四十万幸がこちらを睨みつけてきた。
「近寄らないで」
その瞳には警戒心が宿っている。
「幸、天谷君にラットを抑える薬飲んでもらったから。多分大丈夫だよ」
創の後ろにいた昴が幸を宥めるように声をかけた。
「・・どうだか。だってさっきの話聞いたでしょ、昴も。良杜君のこの痕、天谷君がつけたって」
幸のその言葉に良杜が首筋を抑えて体を震わせた。怯えているのがわかる。
創は一つ深呼吸をすると、良杜をジッと見つめて言った。
「迎、ごめん。近づかないから話を聞いてほしい」
幸が良杜に目配せする。良杜は一度幸に視線を送ると、今度はそれをゆっくりと創の方に移した。
「・・・本当に・・」
絞り出すようなか細い声が聞こえた。
「本当に・・・天谷が、噛んだの?」
良杜のその問いに創はコクンと頷いた。
「あぁ。俺が噛んだ・・」
良杜の瞳が揺れる。驚きと動揺の色が見えた。
「・・え、でも、そんな・・俺達全然関わりなんかなかったはずなのに・・そんなことになる機会なんて・・」
「・・一回、あったんだよ。お前の首に噛みつけた時が」
「・・・え?」
「サッカー教室の、合宿の時・・」
「・・っ」
良杜がヒュッと息を飲み込んだのが分かった。
創はそのまま言葉を続ける。
「お前が合宿中、熱出して寝てた時・・俺、何回かお前の様子を見に行ったんだ。心配だったから。その時に・・」
「・・か、噛んだの?」
声を震わせながら良杜は聞いた。
「・・・あぁ。なんでか分からなかったけど・・あの時お前から良い匂いがして・・それがガキだった俺には美味しそうな匂いに思えたんだ・・」
ーー
それは、誰にも言っていないあの日の秘密。
まだ第二次性の存在もよく分からない子どもだった頃。
あの『良い匂い』が何を意味するのかなんて、その時の自分はもちろん知るはずもなかった。
迎良杜は創が今まで会った友人の中でも特に大人しい人間だった。いわゆる地味なタイプだ。
けれどなぜだか目が離せない。気がつけばいつも彼の存在を探し、彼を目で追っている。
良杜と初めて会った時に感じたあの予感にこだわっていたのかもしれない。
彼とは何かある。
その証拠に良杜と話していると創は不思議と温かい気持ちになった。
この感情が何なのか、うまく表現することが出来ず創は『気が合いそう』と伝えた。
そう言われ良杜は困ったような笑顔を浮かべたが、満更でもなさそうだった。
その表情を見て、創の中に欲が生まれた。
もっと近くに。もっと仲良くなれたら。
そしたらこの感情の正体がわかるかもしれない。
そんなことを思っている最中に良杜がサッカー教室の合宿中に体調を崩した。
熱を出したらしい。
創は良杜のことが気になり、言い訳を作っては練習を抜け出して様子を見に行った。
部屋を開けると、良杜が一人寝息を立てて眠っていた。
そっと音を立てないようにして近づく。
先ほど見にきた時と変わらず起きる気配はなさそうだ。
しかし、何か違和感があることに気づき創は周りを見渡した。
『匂い』がするのだ。さっきはなかった、芳しい匂いだ。
どこから匂っているのか気になり、創は鼻をクンクンとさせながら部屋をぐるりと見回す。
しかし良い匂いのしそうなものはない。
それからふと視線を下に落とし、その匂いの元が近くにあることに気がついた。
良杜からだ。
眠っている良杜に少しだけ体を近づけてみる。すると思わず生唾を飲み込みそうになるような、良い匂いが鼻全体に広がってきた。
創はぼんやりとしながら良杜を見つめる。
この匂いはなんなのだろう。
なぜ良杜の身体から匂ってくるのだろう。
すごく不思議だ。普段甘い香りはそこまで好きではない。
けれど良杜から漂ってくる香りは、ずっと欲していたような求めていたようなそんな匂いだった。
「・・ぅうん・・」
良杜が小さく唸って寝返りを打った。
仰向けになっていた体が、コロリと横向きになる。
すると先ほどまで隠れていた良杜のうなじが見えるようになった。
創はそこにそっと顔を近づける。
ここが一番匂いが強い。
なぜ、急にそうしようと思ったのか。それは分からない。
無意識だったようにも思う。
創はそっと口を開くと、その一番良い匂いのする箇所に優しく歯を立てて噛みついた。
「っ・・・」
ビクッと良杜の肩が揺れる。しかし起きることはなく、再び気持ちの良さそうな寝息を立て始めた。
「・・・」
創は良杜の首筋を見つめる。今しがた自分の付けた歯形が薄赤く色づいている。
きっと、こんな痕はすぐに消えてしまうだろう。
けれど不思議と満足感があるのはなぜだろう。
創は良杜が起きる気配がないことを確認すると、静かにそっと部屋を出た。
それから再度部屋を訪れた時には、彼は目を覚ましていた。部屋に入ると先ほどの美味しそうな匂いがまだ微かに漂っている。
思わず噛みついてしまったことを良杜に言おうかと思ったが、それはやめておいた。
さすがに眠っている間にそんな事をされたと知ったら嫌われてしまうかもしれない。
伝えるのはもっと仲が深まった時でいい。
そんなふうに思っていたが、そんな時はこなかった。
良杜がサッカー教室を辞めてしまったからだ。
学校で話しかけてもみたが、辞めたことが後ろめたいのか彼は気まずそうな顔をしてすぐに去ってしまう。
結局良杜との距離は縮まることなく、自分の心に生まれた感情の正体は分からないまま時間だけが過ぎていった。
ーー
「まさか、あの時噛んだ痕が・・まだ残ってたなんてな」
話を終えると、創は改めて良杜を見つめて言った。
「迎は、そこに痕があること気づいてなかったのか?」
創が聞くと良杜はフルフルと小さく首を横に振った。
「全然。全く知らなかった・・自分じゃ後ろは見えないし、今まで誰にも言われたことないし・・」
「子どもの歯だからか、かなり小さい痕だしね。それにくっきりとした歯型でもない。人の首筋なんてみんないちいち見ないし気づかないと思うよ」
幸は神妙な顔つきで言うと、創に鋭い視線を向けた。
「まさか、そんな子どもの頃に噛む奴がいるとも思わないしね」
「・・だから、あの頃の俺は第二次性のこともよく分かってなかったって言ってるだろ。ただ美味そうだって思って・・」
創が反論しようとすると、その言葉を遮るように幸は言った。
「つまり、その時良杜君は軽いヒートを起こしてたってことでしょ」
「え・・」
良杜は驚いた顔で幸を見つめる。
「まだ第二次性が分かる前の年齢だし、本来ならヒートが起こるわけないんだろうけど。でも、きっとその要因になるものがあったから、良杜君は知らないうちに人より早くヒートを起こしてしまった」
「・・要因って・・」
良杜が聞くと、幸は小さくため息をついて創に目を向けた。
「・・運命の番と出会ったから・・じゃない」
「っつ・・・」
大きく見開かれた良杜の瞳が創を見つめる。創もその瞳をジッと見つめ返した。
「・・やっぱり、そうなんだ。俺とお前は運命の番なんだ」
気持ちが高揚するのを抑えながら創は言った。
ずっと疑問に思っていた答えがやっと見つかった気分だ。
今までの、表現しづらかった良杜への感情の理由がハッキリした。
『運命の番』は、本能的に求め合う関係だと言われている。良杜に初めて会った時に感じたあの予感は間違っていなかった。
しかしそんな創の想いに水を差すように、良杜は暗い表情でボソッと呟いた。
「で、でも・・・天谷は俺のフェロモンの匂い、あんなに嫌そうにしてたのに・・」
「え?」
良杜のその言葉に創は首を傾げた。
「なんだよ、それ?いつの話だよ?」
「・・・」
躊躇うように良杜が目を泳がせる。しかし一呼吸置くと小さな声で話し始めた。
「・・中学の時、朝会中に初めてヒートを起こして・・その時近くにいたαに臭いって言われた・・でも、その時俺は自分のことだって分かってなくて。体が熱くて辛いから保健室に行こうとしたら途中で天谷とすれ違ったんだ。その時・・天谷は俺から顔を背けて、すごく嫌そうな顔してた・・」
「・・・」
創は良杜の話を聞いて昔の記憶を辿る。
中学時代、朝会で・・そして保健室に行く途中にすれ違った・・
「あぁっ!」
創は大きな声を出してポンと手を叩いた。
「あの時か。寝坊したから朝会はもう諦めて藤村とのんびり来てた時」
思い出した。
確かにあの時だった。
初めて、惑わされるような不思議な匂いを嗅いだのは。
「ちょっと待てよ。俺、あの時嫌な顔なんてしてねーよ」
創は誤解を解くため大きな声で言った。
「むしろその逆だから。なんか眩暈がするような強くて良い匂いがしてきて驚いたんだよ。ただ強過ぎて・・ずっと嗅いでるのはキツかった。それがお前の方から匂ってきたら顔を背けたんだ」
「え・・・」
良杜が困惑した表情を浮かべる。
「どうしていいかわからなかったんだよ。良い匂いだって強過ぎたらまるで毒みたいだ。それにお前体調悪そうにしてたから、お前もあの匂いで変になってるのかと思って・・だから藤村に保健室連れて行くように頼んだんだ」
「・・・そう、だったの・・」
良杜は眉尻を下げ、ボソッと言った。
「俺は・・あの時天谷に不快な思いをさせたと思って・・すごいキツそうな顔してたから・・嫌がられたんだって。それから、天谷に近づくのが怖くなった。またヒートになって臭いって思われたらどうしようって・・」
「・・なんだよ、それ・・」
どうやら完全に誤解させていたらしい。
こんなことなら、あの時ハッキリと『良い匂い』だと言ってやればよかった。
しかし・・一体、なぜ・・
「ねぇ。ところで、なんで天谷君以外の人には良杜君の匂いはダメなんだろう?」
創が心の中で思った疑問を代弁するように、幸が言った。
「天谷君には良い匂いなんでしょ。それなのになんで?」
「それなんだけど・・」
幸の疑問に答えるように、今まで黙って聞いてきた昴が静かに口を開いた。
「良杜君は、半分番状態みたいになってるんじゃないかな・・」
「え?番?」
幸が首を傾げる。良杜も一瞬不思議そうな顔をしたが、何かに気がついたように目を見開くと自身の首筋に手を当てた。
「それって・・もしかして、この痕・・?」
良杜が聞くと昴は小さく頷いた。
「さっき良杜君がヒートを起こした時・・なぜだか良杜君には近づいたらダメだって感じたんだ。不快な匂いっていうよりも・・身体が警戒心を持つ匂いっていうか・・それって、もしかしたら他のαを近づけさせないためのフェロモンなのかもしれない。子どもの頃の噛み跡で中途半端な番状態になってて、だからフェロモンは他のαにも感じられるけどそれが寄せ付ける匂いにはなっていないって考えられないかな・・」
昴は説明するように言うと、チラリと創に目をやった。
「それなら天谷にだけ良杜君のフェロモンが効くのも納得できるし・・」
「・・・」
創はそう言われ無言で手のひらを握りしめる。
あの時、自分が中途半端に噛んだことで良杜を苦しめてきたということか・・
何もわかっていなかったとは言え、自分の行いの浅はかさに心苦しい気持ちになる。
創は改めて良杜に視線を向けた。良杜はピクリと肩を震わせる。まるで怯えているようだ。
「・・そんな、警戒するなよ・・」
創は低い声で呟いた。
「え・・・」
「俺が悪かった・・俺のせいで、お前に辛い思いさせてたんだな」
「・・・」
良杜の瞳が一瞬揺れたような気がした。けれどまだ警戒の色は消えていない。
その隣では四十万幸がこちらに睨みを利かせている。
まるで『Ωの敵が何を言うのだ』と言わんばかりの顔だ。
しかしここで臆するわけにはいかない。
伝えたいことはちゃんと言っておかないと。
そうしなければ、またこの真実を逃してしまう。
創は良杜から視線を逸らすことなく続けた。
「・・俺は、昔からどうしようもなくお前に惹かれてた。その理由がずっと分からなくてうまく気持ちが伝えられなかったけど。でも俺達が運命の番なら・・それなら納得できる」
そこまで言って一呼吸置く。それからはっきりとした口調で言った。
「俺は、お前と番になりたい」
「・・っ」
創の言葉を聞いて良杜が息をのんだのがわかった。
先程まで警戒心を露わにしていた瞳の淵が、ジワジワと赤く滲んでくる。
良杜は口元を震わせると「本当に?」と呟いた。
「本当に・・俺と番になりたの?」
今にも涙が溢れそうな瞳で問いかけてくる。
創はそれまでの真剣な表情を崩すと目元を緩めて笑った。
「あぁ、なりたい」
その返事を聞くと、今までの我慢が決壊したかのように良杜の瞳から涙がポロポロ溢れ始めた。
それから良杜の表情が少しづつ穏やかなものになっていく。
警戒から安堵に変わったのだろうか。
そんな良杜を見て、創もまたホッと胸を撫で下ろした。
『運命』を取り逃す所だった。
世界に一人しかいない、大切な相手を。
やっと・・この手で掴める。
創は自身の手のひらを見つめ、それから固く閉じた。
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