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第6話
暗闇の中、半身の熱を探す。
はる? と声をかけても返事がない。
繋いでいたはずの、手の温もりが消えていた。
「はるっ!」
大声で叫ぶと、カンッ!! と、床に杖の先が叩きつけられる音がする。
「いつまでも無い者を探すのはやめろ!」
すべてを否定するような怒号が飛ぶ。首から上は影がかかって分からない。けれど、陽月は唇を震わせる。
「お……じい、様……」
「いいか陽月。春陽のことは忘れなさい。お前はあやつとは違う。お前はαなのだから、常に上に立つものでなければならない」
陽太のようになりなさい。陽太を見習いなさい。それだけが、お前がここにいる理由なのだから――。
静かで、冷たい声音が届く。それは猛毒のように陽月の心を鈍らせ、深層に定着する。
ちがう、と否定したくとも、言葉は奪われたように出て来ない。
春陽の名前を呼ぶ事が、日に日に減っていく。
一緒に生きた時間より、一人で生きた時間の方が長くなって、愛した表情すら揺らぎ出す。
「――」
「はる?」
何と言っているのか聞き取れない。声が、分からなくなる……。
「はる!」
もう一度呼ぶ。今まで何もなかった暗闇に、白い手が浮かんだ。その指先から、まるで闇を払うかのように、光の粒子が人をかたち造る。
「はじめまして、シュンと言います」
にこ、と笑って春陽は告げた。
目を開くと、いつもの自室の風景が飛び込んでくる。
「――っ……!」
息苦しさに起き上がり、ギュッと胸元の服を握り締める。暴れまわる心臓が煩くて、陽月は苦虫を噛み潰したように低く唸った。
「……っ、クソ……」
最悪な目覚めだ。もうこの世に存在すらしないのに、それでも自分の中に巣食う祖父の姿に、腹立たしさを覚える。
落ち着くように深呼吸を繰り返す。視線を向ける外には朝の光。夜は、明けたはずなのだ。
※※※※※
「……陽太様……、今、何と……」
耳に届いた信じられない命令に、悟志は言葉を失った。いつもと変わらず冷静な様子で、陽太は言葉を繰り返す。
「春陽への必要以上の指導は不要だ。あのままで良い」
「……と、申されますと……」
何度も同じ事を聞き返してくる悟志に嫌気が差す。一度で理解してほしいものだ。
「お前からの指導は不要だと、そう言っている。必要以上に春陽に構うな」
きっぱりと告げると、悟志は動揺したように瞳を揺らした。なぜ……と小声を漏らす。
「春陽は今のままで社交界に通用すると思うからだ。以上、反論は許さない」
陽太は悟志の返事を聞かずに踵を返す。
陽太に続くように、部屋を後にしようとした雅明の耳に、悟志の声が届く。
「まさか、陽太様は瀬野家の伝統を、お潰しになられるおつもりなのか……」
悟志は俯いていた。もしかすると、心情を吐露していることにすら、気付いていないのかもしれない。
「悟志さん。陽太様は瀬野家をお潰しになるつもりは、毛頭ございませんよ。ただ、新しい形になさりたいのです」
雅明が告げると、悟志はゆっくりと顔を上げた。その瞳には焦りと、確かな不安が乗っている。
「どうか、陽太様のお気持ちを汲んで頂きたい。春陽様は、ありのままが一番魅力的なのです」
では、と軽く会釈をし、雅明も部屋を後にした。
一人残された悟志は、まだどこか朦朧としていた。どうして、自分が責められなければならないのだろう。
いつもは憧れるほど強い陽太の姿が、今は憎らしく思い出される。
先代の丈之助さえも憧れた、陽太の強さ。「あれは瀬野家を変える」と、丈之助は口癖のように言っていた。その言葉を信じて、悟志は今まで誠心誠意、この家と陽太に尽くしてきたつもりだ。
春陽への指導も、その一環だ。社交界でも隙を見せぬよう、瀬野家の人間として、然るべき姿であって欲しいと……ただ、それだけなのに……。
変わってしまったのだろうか。陽太も、この家も……。
「……あのΩのせいだ……」
いつかの、丈之助の言葉が思い出される。誰彼構わず体を開く低俗、子作りしか出来ない脳無し、αに媚びを売って付け込もうとする。すべて、春陽と春陽の母に掛けていた言葉だ。
やはりそうだった。丈之助様のお言葉は、間違いなかった……。
力なく下げた手を、ぐっと握り締める。
「このままで済むと思うなよ……」
そう口にして、悟志も部屋を後にした。
※※※※※
今日は何の予定も入っていない。
出掛ける予定ももちろんないので、加谷には休みを取らせた。
一人部屋に居てもいい。けれど、それでは何故か寂しくて、リビングで新聞を捲る。
先ほど、陽太が出掛けて行った。悟志へ忠告はしておいたけれど、気を付けて、と一言添えて。
それから、父にも連絡したと言っていた。案の定「切ってもいいよ」と許可をくれたらしい。悟志が抜けた後釜に誰を据える気なのか、ちゃんと考えているのだろうかと、少し疑問が残る。まぁ……後先考えずに行動する癖もあるから、あまり考えていないのかもしれないけれど。
新聞の最後のページを読み終える。元々あったように折り畳み、ポイとテーブルに放り投げた。
さて、どうしようか……。
春陽はいつ目を覚まして来るだろう。昨夜は陽太が連れて出たのだから、恐らく陽太の部屋に居るだろうと予想する。春陽の部屋を覗いて、居るかどうか確認したわけじゃない。けれど、間違いないはずだ。だって、自分ならそうするから。
本心を言えば、多くの面前に春陽を晒したくはない。もちろん、自慢したい気持ちはある。「この子が俺の番だ、可愛いだろ!」と宣言出来たら良い。けれど、春陽が注目の的になるのは些か頂けない。他人の目線のシャワーを浴びる春陽の姿は……やっぱり許せない。
心が狭いな、と思う。陽太のように、自信を持って誰かに紹介できれば良いのに。……いや、誰かに紹介すら、したくないのかもしれない。
自分のものだと、家の中にでも閉じ込めてしまえれば良いのに。勝手にどこかへ消えないように、誰かに奪われることがないように。
そんなことを考えて、陽月はため息を吐いた。今日は駄目だ。夢見が悪かったせいか、思考も悪い方向にぐるぐると回る。
やっぱり部屋へ戻ろう……。そう思って立ち上がると、静かな音を立ててリビングの扉が開いた。ひょっこりと春陽が顔を覗かせる。
「おはよう」
声を掛けると「おはよう」と春陽は返す。何となく声が掠れている気がして、陽太め……と心中で恨んだ。それでも「陽太なら出掛けたよ」と告げた。何となく、春陽が探している気がしたから。
「そっか……行ってらっしゃいって、言えなかったな……」
少しだけ肩を落としながら春陽が入って来る。
「言わなくても、春陽の寝顔を堪能してから仕事に行っただろ」
隠すこともせずストレートに伝えると、もう……と春陽は恥ずかしそうに頬を染めた。
「どうしてすぐ、そういうこと言うの?」
「俺も同じことするだろうから」
「だーかーら! 俺は起こして欲しいの! 恥ずかしいじゃん、そういうの!」
そうやって、わーわー騒ぐ姿も可愛いんだけど……と、言ったらさらに騒ぐから、言わないでおく。代わりに、「分かった。俺はちゃんと起こすから」とだけ伝えた。出掛ける前に、とは言わないけれど。
テーブルに春陽の朝ごはんが並ぶ。元々少食だから、朝はより入らないと本人は言う。厚みのある食パンを半分と、スープとサラダ。大体いつもお決まりのメニューだった。
本当なら、もっと食べて欲しいと陽月は思う。昨夜の消費カロリーより、朝の摂取カロリーの方が少ないだろう。だからいつまで経っても、春陽は細いままだ。そのうち倫に「もう少し控えなよ」と言われたらどうしようかと、要らぬ心配まで付いてくる。
陽月がそんなことを考えている間、春陽は昨夜、出掛けた時の事を話して聞かせてくれていた。
「でね、俺、本当にひな兄が国語の先生じゃなくて、良かったと思った」
「教科書の文章が、絵本の読み聞かせになるから?」
「そうそう。めちゃくちゃ眠くなる。あ、でも、ちゃんと起きてたよ」
「そうか。偉かったな」
褒めてはおいたけれど、なるほど、春陽はずっとうとうとしながら、陽太の隣に座って居たわけだ。
それを正面から見せられている啓佑は、どう思っただろうか。あの人も大人だから、もちろん多めに見るだろうけど、正直、自分なら怒鳴り散らすかもしれない。「そんなに“本物”自慢したいか?」と。そして「良いでしょ?」とドヤ顔をキメる陽太まで、セットで想像出来た。
ともなれば、陽太が春陽をこのままで居させたい気持ちも分かる。本当に、悟志の教育は必要ないのだ。
今度春陽に何か言おうものなら、容赦なく怒ろう、と陽月は決めた。
今日は加谷もいないから、春陽の髪は陽月が結った。加谷のように器用でないから、ただのポニーテールにシュシュを飾った。それでも春陽は「ありがとう」と笑ってくれる。
隣に座って、春陽が宿題をするのを眺めた。途中、分からないところは教えたりして。
「あー! そっか、そうやって解くんだ!」
理解出来ると、素直に声を上げて喜びを表現する。
「陽月すごいね。めっちゃ分かりやすい」
「そうか? じゃあ、次はこれ。同じ公式で解けるやつ」
迷いながらも、春陽はノートにペンを走らせる。
「出来た!」
「うん、正解」
よし、と自信がついたように笑う。陽月もつられて微笑んだ。
こんなに穏やかな日常が訪れるなんて、陽月は思ってもみなかった。訪れたとしても、その時の自分は、この家に居ないだろうと思っていたから。何も失うことなく春陽がここにいることが、陽月にとって奇跡だった。
離れていた時間を埋めるように、幸せが積もってゆく。少しずつ積み重ねて、いつか離れていた時間すら、忘れてしまうかもしれない。
二人の会話は、夏に見た花火の話になっていた。きれいだったからまた見たいな、と春陽は言う。
「また来年も行こう」
「来年もやってるかな?」
「演目が変わればやらないか……。でも、同じ花火じゃなくてもいいよ。別の花火でも、俺は春陽と見るなら何でもいい」
「俺も。陽月と見るなら何でも良いかも。……じゃあまた、来年もどこかで花火見よう」
そう約束して、言葉が途切れる。時計の音だけが静かに響いていた。
先に口を開いたのは春陽だった。「あの……」と小さな声で切り出して「ごめんね」と続けた。何に対しての謝罪だったのか、陽月は分からない。
「何が?」
「えっ……と…………その……」
静かに春陽の言葉を待った。それよりも早く、春陽の瞳に涙が浮かび始める。
「どうした? 悲しいことでも思い出した?」
優しく問いかける。春陽は、違う、と緩く首を振った。
「俺……最初、陽月にひどいこと、言っちゃって……」
「酷いこと?」
「陽月のこと、忘れちゃってたから……はじめまして……って……」
「ああ……しょうがないよ、それは」
その言葉で傷付かなかったのかと問われれば、確かに心は痛かった。けれど、まずは再会出来た事に感謝をするべきだと、陽月は思う。
もしも、自分に対しての言葉で春陽が傷ついてしまったのなら、大丈夫だよ、と教えたい。会えたことが嬉しかった、と伝えたい。
泣かないで、と春陽を抱きしめる。
「もう二度と、陽月と離れない。はじめましても、久しぶりも、二度と言わないから」
「うん……。俺も、二度と離れない。ずっと春陽を守るよ」
どんなことがあっても、絶対……。そう誓ってキスをした。
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