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第8話

 丈之助の部屋の扉には鍵が掛かっていた。陽月は加谷から受け取った鍵で、かちりと封を切る。  震え出しそうな指先に力を込め、扉を開いた。重苦しい、大嫌いな空気が、陽月の体を嬲ってゆく。  薄暗い室内で床に伏せる人影を見つけた。声を上げて駆け寄ろうとする陽月の耳に、カンッ! と恐怖の音が響く。全身が凍り付いたように冷たくなり、足が動かなかった。 「……おかえりなさいませ、陽月様」  ゆっくりと、部屋の主は陽月の帰宅を迎えた。 「悟志……」  そこにいるのは、陽月を貶める祖父ではない。けれど、手に握られた祖父の遺物は、まるでそこに祖父がいるかのように、陽月に錯覚させる。 「何を……している……?」  ひどく頼りない声だと思った。いつもの自分ではないような、けれど、これが本来の自分のような……。 「春陽様に、正しい瀬野家の在り方を、教えていたのですよ」 「正しい……瀬野家?」 「そうです」  言って、悟志は杖を鞭のようにしならせた。咄嗟に、陽月は瞳を閉じる。懐かしいですね、と悟志は呟く。 「こうやって、教育されていらっしゃいましたよね。だからあなたは瀬野家の人間になれたのですよ、陽月様」 「なに、を……言って」 「すべてを支配するのです。丈之助様の口癖でした。上に立つものは、常に下の者を支配するべきだと。陽太様が、あなたをも支配するように」  陽月様! と、加谷の声が聞こえて、陽月はハッと意識を取り戻す。そのまま、背中を押されるように走った。 「春陽っ!」  ぐったりと意識のない体を抱き起こし、涙で濡れた髪を払って、顔色と呼吸を確かめる。体温の引いた体。浅い呼吸は、辛うじて春陽の生を伝えていた。 「春陽っ! 春陽っ!」  名前を呼んで抱きしめる。もちろん返答などありはせず、止めどない不安が陽月を飲み込んでいく。  陽太に気を付けろと忠告されていたのに……どうして、手を離してしまったのだろう。  こんなことになるなら、一緒に連れて行けば良かった。自分の番だと堂々と紹介して、陽太のように自慢すればよかった。独り占めしたいなんて、他人の目に触れさせたくないなんて、身勝手過ぎたのだ。「ごめん」と呟く声が揺れる。 「陽月様が反省なさる必要はございませんよ」  その力強い声に顔を上げると、二人を守るように、加谷が悟志の前に立っていた。 「悟志様、あなた、何をしているか分かっているのですか?」 「ええ。しっかりと。理解していますよ」 「そうですか。では、あなたは首ですね」  きっぱりと加谷は言った。まさか、と悟志は薄ら笑う。 「私は、この家を正しい方に導いているのです。間違っているのはあなた達ですよ。こんなΩ一人に翻弄されて、情けない」 「情けない? あんた、今まで何を見てきたんだ。番を失って、陽月様がどれだけ苦しかったか、陽太様と比較されることを、どれだけ我慢してきたか、あんたはずっと側で見てきたんだろう、助けもせずに!」  怒りを露わにした加谷の声が響く。悲痛な叫びは、陽月のそれ、そのものだった。 「助ける? 必要がない。所詮、陽月様は陽太様には勝てないのだ。瀬野家の血も継いでいないのに。むしろ、家に置いてやった丈之助様のご厚意に、感謝するべきだと思うがね」  平然と、悟志はそう口にする。全く悪びれもない様子に、加谷は心底失望した。こんな輩が、この家の執事長だと言うのか……。 「そこまで」  静かに……でも強い、陽太の声が響き渡る。悟志によって、恐怖に支配されていた空間が、一瞬にして陽太のそれへと置き換わる。陽太は堂々たる態度で、雅明とともに現れた。  自分を守ってくれる気配を肌で感じたのか、春陽がぴくりと体を震わせ、陽月の腕の中で息を吹き返す。  入口から部屋の中を軽く見渡して、陽太はそれぞれの状況を確認する。 「加谷、陽月と春陽を」  落ち着いて指示を出すと、加谷は魔法が解けたように陽月たちに向き直る。 「陽月様、参りましょう」  陽月は答えず、ただじっと春陽を見つめていた。失意を含んだ瞳が、悲しく揺れている。 「陽月」  陽太が名前を呼ぶ。ゆるりと陽月は陽太を見た。陽太は、真っ直ぐにその視線を受け止める。  春陽を失った後に何度も見た、悲しげなその色……。これまでは陽太が、そこから抱き上げて、立ち直らせてきた。  けれど、今は違う。陽月は自分から、陽太の手を卒業して行った。ならば、ここからは自分で立ち上がるしかないのだ。 「陽月、目を覚ませ」  強く、優しく、導くような陽太の声が陽月の耳に届く。春陽を助けるんだろう、と言うように。  ゆっくりと、陽月の体に血が巡り出す。虚ろだった瞳が、春陽の姿をはっきりと映し出した。自分の腕の中に春陽がいる。  瞬間、陽月の瞳が命を取り戻したように輝く。  何が祖父様の部屋だ。もうこの世に存在しないものに、いつまで怯えているつもりなのか。自分は、そんなに弱くないだろう。春陽を守れる強さを、ちゃんと持っているのだから。 「春陽、帰ろう」  額に唇を寄せて愛しそうに囁く。春陽を抱き上げ、陽太の元へ。 「はる……」  小さくて、弱々しい春陽。この部屋に閉じ込められて、どれだけ不安だっただろう……。想像することは出来ても、同じ痛みを共有することは、陽太には出来ない。本来なら、守る事が出来るはずの手のひらが、傷付いた春陽の頭をそっと撫でる。ごめんね、と言葉にはせず春陽に囁いた。 「大丈夫。俺が、助けるから」  陽月の声が陽太に届く。顔を上げると、いつもの強気な瞳が陽太を見据えていた。  陽太はほっと息を吐いて、陽月と春陽をふわりと抱きしめる。 「良かった……ちゃんと“帰って来た”」  そう呟いた陽太は、少し気が弱っているようにも見えた。 「陽太……?」  思わず声をかけたけれど、そこにはいつものように、余裕の笑みを浮かべる陽太があった。 「はるを頼んだよ」  陽太の願いを受けて、陽月はしっかりと頷いた。愛する者を守る、凛々しいαの姿だと、陽太は思う。自分は陽太の次だと控えめに言うけれど、陽月はちゃんと、陽太と同じ場所に立っているのだ。  ……自分もしっかりしなければ、二人のために。もう何も、手放さないと決めたのだから。  陽月を送り出して、陽太は悟志に向き直る。いつもは従順な悟志が、明らかな敵意を持っていることはすぐに分かった。  やっぱり、采配を間違えたのか――陽太は少なからず自分に落胆する。家の存続と、愛する人の幸せを天秤にかけてしまった。もともと、釣り合うわけがないのに……。 「さて、俺は忠告したよね、春陽に構うなと。なら、これはどういう事だ?」  理由を尋ねると、悟志は陽太の言葉さえも笑い飛ばそうとする。 「理由をお尋ねになるなんて、随分とお優しいですね、陽太様。……やはり、あなたも変わられてしまった……」  どういう意味か、陽太は分からなかった。おおよそ、自分は変わってなどいないのに……。 「以前のあなた様なら、このような私の行動など、お許しになるはずがないのです」 「今も許す気はないよ。悟志、お前はこの家に必要ない」 「この家に必要ないのはあのΩです。丈之助様の仰った通り、あれは疫病神なのですよ」 「疫病神だと……?」 「瀬野家の威厳を蝕んでいく……。陽太様、あなたも……。神から人へ成り下がってしまわれた。常に瀬野家のため、丈之助様の思いを継いで、冷酷に、無情に、私たちを率いて下さっていたのに……!」  それは、ただの悟志の嘆きだった。  ――瀬野家の跡継ぎたるもの、常に人の上に立ちなさい。  いつかの、祖父の言葉が脳裏に浮かぶ。  彼は、悲しい人だった。無論、祖父とて立派に家を守ってきた。しかしながら、祖父の強さは見せかけのそれだ。恐らく、陽太のようなα性も、Dom性も、どちらも持ち合わせてはいなかったのだろう。虚勢を誇張して、どうにか威厳を保っている……そんな印象が陽太にはあった。  ――感情は不要だ。すべてを支配し、従わせれば良い。陽太、お前はそれが出来る、選ばれた人間なのだよ……。  まるで縋るような、憧れるような、純粋な思いを陽太に向けて。……本当に、反吐が出る。 「陽太様は選ばれたお方なのですよ……!  あんなΩのためだけに、この家も、私たちも、見捨てるのですか!?」  なんて悲しい言葉だろう……。  陽太は決して、この家に尽くすために生きてきた訳ではない。ただ、陽太の性質が人より強かっただけだ。それなのに、まるで神のように崇められ、ただ一人を愛しただけなのに、今度は罵声を浴びせられるのか……。  どいつもこいつも、自分を何だと思っているのだろう。俺は、神でも何でもないのに……。 「……言いたいことは以上ですか?」   雅明が静かに口を開く。無礼も気にせず陽太の前に進み出ると、庇う様に悟志と対峙した。 「今すぐ瀬野家から出て行って下さい。あなたはこの家に、必要ありません」  陽太が告げた事を、雅明も同じように言い放つ。 「黙れ! 私は瀬野家の執事長だぞ! 私に命令など、お前に何の権限がある!?」 「私は陽太様の執事です。次期当主の側近として、私はあなたを支配下に置くことも可能です」  ざわり――と空気が揺らいだ。静かで気丈な雅明の圧が、悟志を真正面から飲み込む。 「あなたが陽太様に求める事などどうでも良い。この方は神でも何でもありません。必要以上の強さを持って生まれた、ただの人間です。その強さを誰のために使うか、決めるのは陽太様です。何一つ陽太様を理解していないのに、お前如きが与えてもらおうなどと、図々しい」  雅明の言葉を受けて、悟志は苦しそうに息を詰めた。呼吸すら許して貰えない支配が、そこにはある。 「もう一度言います。“あなたは必要ありません”。この家にとっても、陽太様にとっても、必要なのは春陽様なのですから」  断言すると、それまで静かだった陽太が、雅明の隣に歩み出た。ぽん、と雅明の肩に手を置いて、陽太は笑う。雅明もそれに笑みを返して、陽太に譲るように一歩後ずさった。  悟志の前に、次期当主として陽太は立つ。 「雅明の言った通り、俺はただの人間だ。お前に与えられるものは、もう何もない」 「陽太様……」 「分かったのなら、今すぐにここを出ていけ。二度と瀬野家に足を踏み入れることは許さない」  そう冷酷に、陽太は吐いた。  悟志の処理は他の使用人に任せ、陽太は雅明とともに自身の執務室へと戻る。  目を通しかけていた書類が、まだ机の上に重なっている。  そうだ、出先から戻ったら、これを片付けてしまわなくてはと思っていたんだ。  ……ああ、それから、父に連絡をしなければ。悟志を切ったから、その後に誰を就けるか、相談して……。 「陽太様」   雅明に呼ばれ、視線を寄越す。ぽんぽん、とまるで陽太が春陽にするように、雅明は陽太の頭を撫でた。  驚いて、陽太は目を丸くした。こんな風に、子供みたいにあやされるのは何年ぶりだろう……。  雅明は何も言わなかった。けれど、自身の身を案じてくれているのだと、陽太は分かる。  人の手のひらは、こんなに温かいものだったんだな……忘れていた……。 「……っ、ははっ……久しぶりに失敗したなぁ」  呟いた声が震えて、目頭が熱くなる。 「失敗などではありませんよ……経験です」 「…………経験、か……」  これまでの経験なんて……それほど陽太の人生を豊かにするようなものではなかった。けれど、自分のために啖呵を切ってくれた雅明の優しさが、素直に嬉しかった。  ただの人間だと、言ってくれた。陽太が持って生まれた強さも、誰のために使うかは、陽太が決めるのだ、と。 「ありがとう、雅明……」  感謝を口にすると、雅明は穏やかに微笑んだ。 「陽太様の頑張りは、私が一番存じております。私は、陽太様の執事ですから」

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