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第9話
ベッドの海に沈んだまま、春陽はなかなか目を覚まさない。息をしているか確認することしか、陽月は出来なかった。
途中、陽太が様子を見に来た。同じように、春陽が息をしているか、確認することしか出来ないけれど。
「悟志は首にする」
まるで業務連絡のような言い方だった。うん、と陽月は返す。
三人も同じ部屋にいるのに、誰一人言葉を発せなければ、誰も居ないのと同じだ。ただ静かに、時間だけが過ぎていく。
沈黙を破ったのは陽月だった。「なあ」と陽太に声をかける。
「もし、祖父様が生きてたら、どうしてた?」
「……はるのこと?」
聞き返され、うん、と陽月は返事をする。自分なら、この家を出るだろう、と話をしたら驚くだろうか……。
「探したよ。祖父様が生きていても」
「家に連れて帰れないのに?」
「関係ないよ。どこで生きていても、支援することは出来る」
迷いのない口調で陽太は言う。やっぱり強いな……、と陽月は思った。自分には、それは出来ない。春陽の手を取って、ここを捨てゆくしか、思いつかない。
「俺はひいみたいに、家を出ることは出来ないからね」
察したように、陽太はそう口にする。陽月は思わずため息をついた。
「やっぱり、そう思ってた?」
「思ってたよ。ひいなら、それが出来るなって」
どこか諦めたように陽太は笑っていた。しようと思えば、陽太も、同じことが出来るかもしれない。けれど、そこまでの勇気と果敢さが、陽太にはなかった。
どちらにせよ、祖父の先が長くないことは分かっていたし、焦る必要もないかと、どこか悠長に構えてしまっていたところは反省点かもしれない。
「まあ、無事にはるを家に保護出来た訳だし、結果オーライかもしれないけどね」
「保護とか言うな。小動物かよ?」
「じゃあ、愛護?」
ちょっと可愛くなった? と、意見を求められる。まあ、多少は。と答えておいた。
「……もし仮に俺が家を出てたら、陽太はどうしてた?」
ずっと気になっていた問いをぶつける。今は春陽がその愛情を受けているけれど、その前は陽月だった。だから、その状態で離れたら、陽太はどうしたのだろう……。
もちろん探すよ。と陽太は当然のように返す。
「ああでも、前もってGPSでも仕込んでおいた方が、探す手間が省けるか」
なんて、怖いことをさらっと言う。
どこに仕込むというのだろうか。衣類? 持ち物? まさか体とか? いや、陽太ならやりかねないな、と陽月はぞわりと鳥肌を立たせた。ごめんね、と陽太は謝罪を口にする。
「どうしても手放せないんだよ、俺は。ひいも、はるも」
どこか諦めたように、陽太は視線を落として言った。
何でも手に入る、誰からも認められる、一番上に立てる――それが陽太の世界なら、きっとそれすら自分の欲求の為に消費してしまうだろう。今も、それはあるけれど。
ただ愛したいのだ。自分の愛するものを、純粋に。その愛し方が、一般的に歪んでいるとしても。
「だから、俺から逃げ出そうなんて、考えないでくれると嬉しいな」
にこ、と陽太は笑ってみせる。
「考えないよ、今更」
その必要もなくなったし、何より春陽には陽太が必要だから。「よろしい」と陽太は納得する。
「はるにGPS仕込むなよ?」
「善処するよ。迷子にならない限りは付けないから」
裏を返せば、一度でも迷子になったら付けると、そう言いたいらしい。
即答しないだけマシかも……陽太なら既にそうしていてもしょうがないか、と一瞬でも考えたのは失礼だったのかもしれない。
「僕はひいみたいに、感覚で分かるような人間じゃないから……。不安なんだよ、ちゃんと見ていないと」
珍しく陽太が気弱な部分を見せた。陽月はそれを即座に理解できず、首を傾げる。
「ひいが羨ましいよ。はるが何も言わなくても、全部理解出来ちゃうんだから」
「それは陽太もだろ? はるのこと、よく知ってるじゃん」
「僕のは、データの積み重ねから行動の予想が出来てるだけだよ。こうしたら、こう動くって、導線を引いてるだけ。だから予想外のことには弱いんだ」
「……あったの? 予想外のことなんて?」
「……言わない」
陽太は、照れを隠すように口元を指先で覆って、視線を外す。あったんだ……と陽月は理解した。
「ひいはないだろ。そういうの」
「あるよ、俺だって」
「へえ? どんな?」
「春陽に忘れられてるなんて、思ってもみなかった」
「いや、スケールが大きすぎだよ……」
陽太が言うのは、もっと小さな、日常の中に突然湧いて出てきたようなものだ。春陽の人生そのものを比較に出されたところで、どうやって比べろと言うのだろう。
正直、大人になって姿も変わっているのだから、春陽が分からなくても当然かなと、陽太は思っていた。けれど、陽月はそんな疑問さえ抱いていなかったのかと、半ば関心した。
陽太のそれは、時間が作った溝にわかりやすく色を付けるようなものだ。分からなくても当然だよね、と自分自身を守るための。陽月はそれさえ用意していない。だから素直に傷付くのだろう。
「難しいね」と、陽太はぽつりと呟いた。陽月はそれに何も返さない。
窓の外は夜の色が一層濃くなりつつある。春陽が目を覚ます様子は、まだなかった。
※※※※※
悟志の事を報告しなければ――そう思って、雅明は達臣の部屋の扉を叩く。
まさか、永戸の家から悪漢を出すことになるとは思ってもみなかった。叔父も、執事としては立派な働きをする人だったから。
雅明の姿を見て、達臣は読んでいた本をパタリと閉じた。縁側に置かれた椅子から、ゆっくりと立ち上がる。
「おかえり。お疲れ様」
いつものように、達臣は穏やかな笑みで労いの言葉をかける。
悟志の話をした。達臣はただ黙って聞いていた。全部話終えると、静かな沈黙が二人を包む。
「それで……、陽月様や春陽様は無事でいらっしゃるのか……?」
先に口を開いたのは達臣だった。悟志の不始末を問うより、陽月や春陽の身を案じるあたりが、父らしいと雅明は思う。
「恐らくは」としか返せない。雅明が屋敷を後にする時、まだ春陽は目覚めてはいなかった。けれど、陽太と陽月が付いているのだから、大丈夫だろう。
「陽月様は、さぞお辛かっただろうね」
陽月が丈之助に良い思い入れがないことは、達臣もしっかりと分かっていた。執事として、主の行為を咎めることは出来ない。けれど、心が痛むものだとは常々感じていたから。
「陽月様は……大丈夫だと思う。春陽様が戻られてから、お強くなられたから」
陽太の庇護下から、完全に抜け出ているのがその証拠だ。側で見ている雅明ですら、よく陽太の呪縛から自力で脱出出来たものだ、と称賛を贈りたい。
そうか、と達臣は安心したように空気を緩めた。
「……悟志の事は、予想が出来なかった訳ではないけどね。あいつは根が真面目過ぎた。自分の理想の方に。主の思想に寄り添う事が本質だけれど、自分の理想を優先させてしまった。執事として、職を解かれても当然だ」
悟志への理解を示しながらも、同時に、過ちがもたらす結果も、当然のごとく受け入れる。達臣の芯の強さと潔さが羨ましかった。自分は、多少なりとも揺れてしまったから。
けれど、こうも一本筋の通った父の考えを改めさせるのは、やはり至難だと思う。それでも、雅明は言わずにはいられなかった。
「瀬野家に戻る気はありませんか……?」
他人行儀な口調で告げられた言葉に、雅明の職人としての気質が見て取れた。達臣は、そんな息子を嬉しく思う。
「陽太様がそう仰られたのか?」
「直接的に言われてはいないよ。けれど、戻って欲しそうだった。陽月様も」
達臣は少しだけあの日を振り返る。辞表を提出した時、陽太は確かに達臣を引き止めてくれた。けれど、純粋な己の願いを受け入れて、許可してくれた。それが陽太の優しさだと、達臣も理解出来ている。
後ろ髪を引かれる思いがないのかと言えば嘘になる。
元を正せば、達臣は陽太の母、璃々子の執事だった。璃々子亡き後、次いで陽太のお目付け役に。雅明が正式に陽太の執事になると同時に、丈之助の執事に。そうやって、達臣は主を転々と変えざるを得なかった。
どの主に対しても、誠心誠意があるからこそ難しい。亡くなった主の家に留まり続ける異様さと、執事としての誇りを遵守するならば、潔く去るのが当然だ。
けれども、丈之助の呪縛から解放された翔と陽太が、どんな瀬野家を創り上げていくのか、見ていたい気持ちもある。
達臣は答えが出せなかった。雅明も、それは分かっている。ごめん、困らせて、と謝罪を口にした。
「いや……お前は陽太様の執事なのだから、それは当然の事だよ。気に病む必要はない」
「そう……だね……」
「……私も、もちろん気にはなっているよ。だけどね、私も丈之助様の執事としてのプライドがあるから、簡単に“はい、わかりました”とは言えないんだよ」
「うん……」
とても……難しい話だと思う。なにかきっかけがない限り、この話はどこまでも平行線を辿るだろう。
雅明は諦めて「じゃあ、それだけだから」と話を切り上げる。
部屋を出る瞬間に、達臣の携帯が鳴った。ディスプレイを確認して驚いた表情を浮かべた達臣を、雅明は気付けはしなかった。
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