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第11話
陽太から連絡を受け、倫は急ぎ足で瀬野家へと向かう。
はるに発情期が来た――そう告げた陽太の声は、恐ろしいほどに落ち着いていた。本来の番は陽月の方なのだから、春陽の発情期は、陽太にはそこまで影響はないのかもしれない。
けれど、陽太もα性は持っているから“何もない”ということはないだろう。普段どれだけ理性的なαでも、Ωの発情期のフェロモンには抗えない。
三人とも、無事でいてくれたら良い。修羅場になってなければ、陽太と陽月に、少し強めな安定剤を使えば乗り切れるだろう、と倫は頭の片隅でシミュレーションをした。春陽には、妊娠を防ぐための薬を処方しているから、きちんと飲んでいれば問題はないはずだ。
屋敷に着いて、出迎えたのは雅明だった。寡黙な彼は、普段から多くを語らない。今も、静かに倫を部屋へと案内する。
「三人とも大丈夫そうです?」
試しに聞いてみると、「ええ」と雅明は軽く返事をした。
「春陽様はお辛い様ですが、陽太様と陽月様は、いつも通りでいらっしゃいますよ」
「……え? まじで? ひいちゃんも?」
「ええ」
もちろん、雅明が嘘をつくような人物ではないと、倫も重々承知している。
陽太はともかく、陽月までいつも通りとはどういう事なのか。発情期の番を前にして、いつも通りでいられるなんて聞いたことがない。
「私から見ても、陽太様に何ら変わりはございません。加谷くんも、陽月様に対して同じように感じていると思いますよ。とても不思議なものですが……」
雅明も、理屈がわからない、と言うように表現をした。
こちらへ、と案内されたのは特別室と呼ばれる場所だ。階級が上位になれば、必然的にΩを家に置くことは多い。だから、発情期が来たときの為に、屋敷に専用の部屋を用意するのは普通の事だった。
合図を送り、陽太の許可を得て、倫だけ部屋の中へ足を入れる。
白を基調とした、落ち着いた空間の中に、繊細な金細工があしらわれた家具と、見るからに肌触りの良さそうな寝具。最新の空調システムが、常に心地良い空気を循環させている。
「さすが、瀬野家の特別室ともなれば、壮麗だねぇ」
感嘆を漏らすと、当然だろ、とベッドに腰掛ける陽太が返した。
「はるのための部屋だよ? ここにお金かけなくて、どこにかけるって言うんだよ」
相変わらずの減らず口に、倫は驚きつつも安堵する。
「お前大丈夫なの?」
「うん。割と」
けろりとして、本当に発情期に当てられている様子は感じられなかった。むしろ、いつも以上に冷静な気さえする。
陽太の側では、春陽が可愛い寝顔を浮かべていた。陽月と陽太の衣類に埋もれた安心の中で、どんな幸せな夢を見ているのだろうか……。
これで、発情期が始まってから、まだ丸一日と経っていないなんて、にわかには信じられない。普通なら、熱に浮かされ、欲望のままに盛っている時期だ。
「はるちゃん、本当に発情期来たの?」
「来てるよ。ひいがそう言うし、フェロモンも出てるよ。超優しいけどね」
不快感が全くないの、と陽太は笑った。肌感覚に自分なりのこだわりを持つ男が言うと、説得力が違う。
「で、ひいちゃんは?」
部屋に見当たらない番の行方を尋ねた。
「学校」
「はあ!?」
何て? 学校? 発情期の相手を置いて? いやいや、そもそも大丈夫なの? 当てられてないの? ……倫の疑問は尽きる事なく湧いてくる。
「本当は休むって言ってたよ。だけど、生徒会の仕事をどうしても理解して貰えなかったみたいで、“ちょっと行って来る。すぐ戻る”って、出掛けて行った」
電話の相手に懸命に説明していた陽月を思い出す。結局「分かった行くから」と電話を切った後の、鬼の形相と舌打ちは、陽太でも怖かった。あれは絶対に春陽には見せられないと思う。
陽太が陽月の様子を語る傍らで、倫は頭を抱えた。
おおよそにして、発情期が完全に収まるまで一週間くらいはかかるものだ。発情期を抑える薬を使っても四、五日。その間に離れるなんて、普通ならあり得ない。
番との相性の良さで、もっと短期間で終わることはあるけれど、その日以内に落ち着く、なんて聞いたことがない。
「いや……運命の番ともなれば可能なのか……?」
ならば、非常に興味深い内容ではあるが、それだと新たな疑問が生まれる。陽太だ。
陽太と春陽のオメガ性においての繋がりは、単にαとΩだ。陽月のように、番でも本物でもない。
本来なら、陽月によって春陽のフェロモンは抑えられているはずで、陽太に伝わることはない。現に、同じαである倫は、春陽のフェロモンを全く感じ取れないし、今ここに居ても誘引されないのだから。
けれど、陽太は確かに春陽のそれに影響を受けている。でなければ本人の口から「春陽のフェロモンは、優しくて不快感が全くない」なんて感想を聞くことはないだろう。
一体全体どうなっているのか、本職である倫の知識においても照合性がない。
……『常識』を当てはめる事が、間違っているのかもしれない……。
倫は何となくそう予感する。
まるでデータを集めるように、倫は昨日の詳しい様子を陽太から聞いた。「ってわけ」と、陽太が話を締めくくったタイミングで、眠っていた春陽がもぞもぞと動き出す。どうやらお目覚めのようだ。
おはよう、と陽太は春陽に声をかける。朝からなんて甘ったるい声だろう。
「おは……?」
「朝だよ。調子はどう?」
春陽は目を虚ろ虚ろさせたまま、陽太の腕の中へ収まる。今の状況を伝えたところで、理解が出来ないだろう事は、倫にも分かった。
「うん……症状は確かに発情期っぽいね」
じっと観察するように春陽を見ると、その視線に気づいたのか、春陽も倫を見返して来た。しばらく見つめて、ふいっと顔を反らし、再び陽太の服へすり寄る。自分の相手ではないと理解しての、拒否反応だと分かった。
「あー、うん。嫌だよね。うん……」
分かっているけれど、普段なついてくれている春陽から拒否されるのも、悲しいものである。久しぶりに会った親戚の子供に人見知りされるのと、同じ感覚だ。
「それにしても、よく自分の相手じゃないって分かるよね……。誰彼構わず求めるのが、発情期のΩの本質だって言うのに」
倫が春陽に贈った称賛に、陽太は嬉しそうに笑った。
「当たり前だろ。俺たちのはるなんだから。……はる、目が覚めたなら、飲み物だけでも飲もうか」
そう提案するけれど、これもまた、嫌々と春陽は首を横に振る。駄目、と陽太がはっきりと否定をして、飲料を取りに立ち上がろうとする。
「ひな兄……」
置いて行かれると思ったのか、春陽は陽太の服を掴んで離そうとしない。
「しょうがないなぁ。甘えん坊さんなんだから」
ひょいと春陽を抱き上げて、冷蔵庫の前で降ろす。ペットボトルを開封して手渡すと、両手で支えながらゆっくりと春陽はそれを飲んだ。ほ……と、虚ろな目のまま息を吐く。
その些細な行動すら、倫にとっては異常事態である。先程の人見知りと良い、水分を補給出来る事と良い、発情真っ只中のΩが生殖以外の行動を取れるなど、あり得ないのに……。
霧が掛かったような思考で、扉の開閉音を聞く。
ただいま、という陽月の声。
おかえり、という陽太の声。
二人が優しく春陽を囲んで、ひい、ひな兄、と春陽が誘うように甘く呼ぶ。
そこには本来起こるはずの混沌は存在せず、凪いだ愛だけが満ちている……。
「ああ、そうか! そういう事か!」
倫が気づいたように声をあげる。驚いた春陽が、怖がるように体を緊張させ、陽月が守るように腕の中に包んだ。
「何だよ倫。大きな声出して」
「分かったんだって! ひなたちの発情期の仕組み!」
倫はまるで、全てが腑に落ちたかのように目を輝かせる。
春陽の発情期は、間違いなく陽月と陽太に影響を及ぼしている。けれど、その作用の仕方が違うのだ。
まず、春陽が発情期を起こした際、真っ先に反応したのは番である陽月だ。本能のまま盛ったとしても、理性の回復が早かったのは、恐らく“本物”だからだろう。
そして、陽月が機転を利かせて陽太を呼んだのは正解だった。
陽太と春陽の関係性は、αとΩの繋がりより、DomとSubとしての“本物”の繫がりの方が優先される。αとしての本能の方は抑制され、Domとしての支配欲の方が引き出されたのだ。
つまり、陽太によって春陽の精神面が支配され、安定することで、陽月への影響も最小限になる。かつ、陽月はSwitchであるから、陽太からの影響も受け入れられる。陽太が場を落ち着かせることで、必然的に全てが落ち着く構図になるのだ。
現に、春陽の発情期は、まだ完全に落ちついていない。しかしながら、陽太は動じないどころか、冷静に春陽を導いて、自分から水分を取る、という行動を可能にさせた。
そして陽月も、陽太を信頼しているからこそ春陽を任せ、離れることが出来るのだ。
「やっぱりお前らって、常識が通用しないというか、異質というか……」
いや、三人揃って完璧になるんだ、と倫は思う。三人が体験する発情期は、“本能のままにのぼせ上がる時間”ではなく、“落ち着いた濃密な時間”なのだ。
もちろん、倫の見解が全て正しいとは言い切れない。けれど、それ以外に証明のしようがないのも、また事実である。
本当に、学会で発表したいレベルだと倫は思う。まぁ、発表したところで、発情期の現実的な回避策のようなものには、到底成りえないのだけれど。
どちらの性にしても、Normalが殆どを占める中、それぞれの性に対して“運命”とも呼べる“本物”に出会う可能性など、限りなくゼロに近いのだから。
あー、すっきりした! と言葉通りに清々しい笑みを浮かべる倫を、陽太と陽月は冷静な瞳で見ていた。
倫が捲し立てるように話した内容は、ほぼ正解ではないかと陽月は思う。
倫と陽太が席を外し、二人きりになった途端、春陽は甘えるようにキスを強請る。
通常の発情期のΩより少しばかり理性的とはいえ、十分に淫靡だった。正常な思考に戻った時には、顔を真っ赤にして唸るのだろう。避けられない生理現象にまで、春陽が自己嫌悪を示すのは容易に頭に浮かんだ。
だから、目一杯甘やかそう、と陽月は思う。春陽の自責が少しでも和らぐように、「可愛い」「大好き」「愛してる」を繰り返す。春陽自ら求めるのは、決して悪い事ではなくて、自分たちに愛されることへの許可だと、認識してほしい。
陽月に触れられて、とろ……と瞳を揺らしながら、春陽は熱を帯びた吐息を漏らす。
きもちいい、と幸せそうに微笑んで、はやくちょうだい、と無邪気に陽月の雄を欲する。
まずいな……とは、思う。
ふんわりと漂う春陽の色香は、心地良く陽月に纏わり付いて、理性をまるごと犯してくる。もちろん、そこには恐怖などなくて、本能という感情のない獣が目を覚ますだけだ。
本来ならあるはずの前戯も、愛を伝え合う行為もないままに春陽の中を突き進み、最奥を穿つ。
春陽の悲痛にも似た叫び声で、一瞬理性を取り戻す。口をはくはくさせて、春陽は涙を浮かべていた。
しまった、傷付けた……――陽月の思考が、そう理解する。
「大丈夫だよ、そのまま続けて」
冷静な陽太の声が、陽月の罪悪感を薙ぎ払うように強く届く。それまで溺れていた分別が、欲と愛を大人しく混ぜ合わせ、己の信じる正しいものへと落ち着かせてゆく。
「春陽の意識は俺が管理するから、陽月はそのまま抱いて」
その方が早く収まるよ、と陽太は陽月に告げる。そうして春陽を呼んで、自身のSpaceに堕とし込んだ。
そもそも、酷く犯されているなんて意識、今の春陽にはないだろう。番に本気で愛されているのだから、溢れる涙も叫声も、快楽に因るもののはずだ。
けれど、陽月はそれを自分が与えた痛みなのだと変換する。
春陽の色香に餐まれるまま、繋がって、吐いて、支配する幸福を感じてしまえばいいのに。
「愛してる」なんて、こんな時にまでよくそんな優しい言葉が出てくるものだ。運命の、本物の相手だからこそ、大切にしたいと理性が叫ぶのは、些か不遇だな、とも陽太は思う。
幸せが涙になって頬を伝い、お互いを確かめ合う吐息が深く絡んで、同時に果てる瞬間に、別離したものが一つに戻るような……。二人の交わりは、まるで崇高な儀式を見ているかのようだった。
大切な種を与えられた春陽は、満足そうに微笑んで、するりと陽太のSpaceから抜け出す。意識が眠りについたようだ。
陽月は荒い息を整えながら、春陽の顔に張り付いた髪を丁寧に梳いて、愛おしそうに唇を重ねた。
そうして、おずおずと春陽の上から退くと「助かった」とこぼした。
「ひなが戻って来なかったら、ただ抱き潰すところだった」
「抱き潰せばいいのに。誰も文句言わないよ?」
それこそ、番の特権だと思うのに「いや……はるに悪いだろ……」と陽月は反省を示す。
「そう? 嬉しいと思うけどな。意外と苦痛も好きだよ、はるは」
普段の自分たちの営みを思い出して言えば、陽月の軽蔑した目が陽太を睨んだ。性分なんだ、許して。と陽太が苦笑する。
「言い方が悪かったね。体を傷付けたいとかじゃないよ。心を縛りたいだけ」
弁解すると、「分かってる」と陽月は感情を飲み込むように視線をそらした。
「難儀だなぁ」
「うるさいよ」
「怒らないでよ。ひいのそういうとこ好きだよ。何でも受け入れて、許してくれるところ」
陽太はあくまでも褒めたつもりだった。けれど、陽月は何か考え込むように黙り込む。
「……はるは、不安になるって……。何でも許すなって、怒られた」
眠る春陽の表情は穏やかで、あの時の喧嘩は嘘のように、愛情への布石に変わった。けれど、春陽は確かに言ったのだ。陽月を忘れて傷付けた自分を、許さないで欲しいと……。
「甘えてるんだよ。ひいには、本心を爆発させても大丈夫って分かってるから、わがまま言ってるだけ」
「そうかな……」
「そうだよ。はるは僕にわがままなんて、言ってくれないよ?」
だから言わせるんだけど。と付け足す。
春陽にとっての自分は、甘やかしてくれる兄なのだ。強請らずとも与えてくれる、言わずとも守ってくれる。だから、恋人としての情が抜けている事が多い。わざわざ陽太からアプローチをかけないと、春陽とはそういう雰囲気になりにくいのだ。
「何度“恋人でしょ”って言ったと思う? 未だに、あーそうだった、って顔される、俺の気持ちが分かる?」
「そう? いや……分かるだろ、見てて……はる、完全にひなのものって」
「それは“支配”としてね」
はっきりと陽太は言い切る。少し苛立ちを含んでいるような気がして、陽月は驚いた。
――“喧嘩売ってる?”って言われますよ?――あの時の加谷の言葉が脳裏を掠める。
「俺とはるじゃ、どうしたって上下関係になるんだよ。ひいたちみたいに、甘い雰囲気って言うより、ただの依存になるから、それは恋人とは違うだろ。だいたい、俺たちの関係を一般的に言ったって、理解出来る方が少ないんだよ。はるですら、ダイナミクスの事なんて知らなかったんだから。俺たちの“社会”でだけ通用する、限定的な関係性みたいなものだと思っていい。それに比べて、ひいは“俺の番だ”で全部通じるんだよ? ただその一言だけ。分かる?」
不貞腐れたような陽太の言葉は、まるでお説教のようだと陽月は思う。「う、うん……」と辿々しく返事をすると、陽太の手が陽月の頭を少し乱暴に撫でた。
「だから、ひいがはるの事で、不安になることなんてないの。というか、散々見せつけておいてそんなこと言うなら、俺がはるの“番”になっても良いんだよ? 跡付けちゃえば良いんだから」
トントン、と自身の項を指先で示して、陽太は笑う。
「それは駄目! 噛んだら、たとえ陽太でも許さないからな!」
思わず春陽を守るように抱き寄せて、陽月は声を荒げた。
通常、オメガ性における番関係は、相手の項に所有印……つまり噛み跡を残す事で成立する。けれど、陽月は春陽に対してそんなことをしたくなかったし、する必要もないと確信している。
自分たちは普通の番以上に本物で、運命だ。所有権を見せびらかさなくとも、ただ隣にいる……それだけで、周りには本物だと伝わる。今なら、それが分かるから。
「なら、俺に喧嘩売らないでね?」
「売って……た?」
「売ってた。言い値で買うよ?」
「買わなくていい。返品して」
「もう使ったから返品出来ないよ」
「早すぎだろ」
陽月は思わず苦笑する。指先が、腕に抱いたままの春陽の髪を優しく撫でた。
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