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第12話
いつも以上に思考が働かない……。
温かな海をたゆたうよりも、灼熱の砂漠を旅するような、そんな熱さだ。
日陰を見つけたとしても、それは遠くの蜃気楼で、全てが同じ景色に見えて、行き先も方向も時間も、何もかも分からない。
熱くて熱くて……体が焼けて、溶け落ちそう。それなのに、不思議と怖さはない。
むしろこの熱をずっと感じていたい、浮かされた中で、ただひたすらに、この灼熱を浴びていたいとさえ思う。
ふと、目の前にオアシスが現れた。
休憩をしようと、ぽちゃりと足を浸ける。灼熱の中で、ひやりとしたその感覚だけが妙に場違いだけれど、少しだけ落ち着きを取り戻した気がした。
自然と瞳が閉じて、心地よさに心身が揺れる。このまま、ここで眠ってしまっても良いかもしれない。ここが何処なのか分からないのに、恐怖も敵意も感じられないと、それだけは分かる。
この感覚は一体何なのだろう……。
どこかに行ってしまっていた思考をゆっくりと呼び戻す。記憶の中に、似たような感覚があったと思ったから……。
そうだ……。陽月と陽太、二人に愛してもらっている時の感覚に似ている……。
陽月の与えてくれる熱は、こんなふうに焼け落ちそうなほど熱くて、陽太の与えてくれる熱は、安らぎの場所を与えてくれる。
ふと、天を仰いだ。燦々と降り注ぐ、穏やかで眩しい光。太陽のように強く暖かくて、月のように静かで優しい。
空間の全てに包まれて、空間の全てに愛される。
自分は、この場所を知っている……ううん、知っていた。やっと、帰って来られた……。
光に向かって両手を伸ばす。ただいま、と言葉がこぼれて、切なさに涙がこぼれた。
ずっと帰りたくて、帰り道が分からなくて、ずっと探していて……。見つけてくれたのは、きっと二人だ。
「「はる」」
光の向こうで二人が呼んでいる。そろそろ、起きる時間だよ、と……。
肌に触れる布の感触が羽のように柔らかい。今までにない極上の寝心地に、ああ、まだ寝ていたい……とぼんやり思った。
甘えるように顔を擦り寄せたのは、その布とはまた違った素材で、少し固めでざらざらしている。すん、と空気を吸い込んで、よく知った匂いに瞼を開いた。
「…………ふくだ」
自分が抱え込んで眠っていたものを認識する。見慣れたスーツ。陽月と陽太のものだった。
驚いて飛び起きる。こんなにきつく掴んでいたら、完全にシワがついてしまう。大丈夫だろうかと広げると、二人の声が届いた。
「「あ、起きた」」
陽月と陽太、同じ言葉がピタリと重なる。
春陽は声のした方に視線を向けた。真っ白で金細工のあしらわれたテーブルを囲み、二人がお茶を飲んでいる。そのままぐるりと辺りを見渡して、自分の居場所を確認しようとした。どうやら自分の部屋でも、どちらかの部屋でもない。
天井から下がる大きなシャンデリアが、優しい色合いで室内を照らし、カーテンは外の光を完全に遮断しているのか、時間を予想することは出来なかった。自分の眠る大きなベッド、足の毛の長い絨毯、ゆったりとしたソファーと壁掛けの大型テレビ。まるで高級なホテルのようだ。初めて見る空間に、思わず「どこ?」と聞いた。
「うちの特別室」
言いながら、陽月は春陽の隣にやってくる。
「特別室……?」
疑問符を浮かべて聞き返すと、春陽を挟むように陽太も隣に座った。
「一般的には、“専用ホテル”って呼ばれる所と同じかな?」
その名称を聞いて、春陽はサッと顔色を変えた。キュッ、と心臓が痛い音を立てる。
専用ホテル……春陽はまだ使用したことがないけれど、発情を起こしたΩが使用する、特別なホテルだとは知っている。誰彼構わず誘ってしまうフェロモンを完全に遮断する作りで、周りに迷惑を掛けないように、発情期が過ぎるまで収容しておく場所……。
それと同じような場所に居るということは、つまり自分がそうなのだと、否が応でも理解出来てしまう。
二人に、迷惑を掛けてしまった……。
ごめんなさい、と口にする前に、陽月がそっと春陽を抱きしめる。
「大丈夫。迷惑だなんて、思ってないよ」
なだめるように、とんとんと背中を叩かれる。
「そうだよ。はるだけじゃない、Ωなら誰にでも来る生理現象なんだから」
陽太が優しく頭を撫でてくれる。
それでも「ごめんなさい」と口にせずにはいられなかった。陽月と陽太も、そんな春陽を穏やかな笑みで許してくれる。
もちろん、春陽の言葉は二人とも予想出来ていた。だから、深く受け取らずに、笑って流そうと決めていた。その方が、春陽の自責の念も、軽く済むような気がしたから。
「はる、喉乾いてない? 何か飲めそう?」
「お腹が空いてるならご飯でもいいよ? どうする?」
春陽の沈んだ気持ちをよそに、二人はさも平然と選択肢を提示する。あまりの自然さに、春陽は返答に困った。
「えっ? ……えっと……ど、どうしようかな……」
「ゆっくり考えていいよ。時間はたっぷりあるから」
「そうそう。どうせ、僕も陽月も、仕事とか当分する気ないしね」
「えっ……? お仕事忙しくないの? 大丈夫?」
休日でも出掛けて行くような二人だ。そんなにのんびりとしていて良いのだろうか、と心配になる。
「俺のせいで仕事に影響が出るのなら……放っておいてくれても構わないよ……?」
そう言ってはみたものの、正直二人が居なくてどうするか、考えてはいない。……火照った体を、一人でどうにかするしかない。けれど……
「俺は周りに投げた。数日くらい何とかするだろ」
「僕も。雅明に任せておけば安心だから」
そう二人が言うので、なら甘えても良いのかな……と思う。
「当分は、はるが俺たちを独占していいからな」
「そうだよ。どんなお望みでも叶えちゃうよ」
だからどんなわがままでも言って、と二人は強請る。えっ、えっ、と春陽はただあたふたしてしまった。
そんな春陽に、可愛い、と陽月はキスを贈る。
「……本当はさ、ゆっくりしたいのは俺たちの方」
「えっ……?」
「こういう時だからこそ休めるんだよ、僕たちも。番の発情期なんで、って言ってしまえば、誰も文句言わないし」
だから、ありがとう、と二人から言葉をもらう。
とくん、と春陽の心臓が小さく鳴いた。発情期なんて、お礼を言われるようなものではない。ただ盛るしか出来ない、卑しい本能なのに……。
「それに、俺たち再会してから、一緒の時間って、まともに過ごしたことなかったじゃん」
「そうだよ。だから三人でゆっくり過ごそう。ドラマや映画も見れるよ」
「もちろん、はるがヤりたいなら、とことん付き合うけど」
どうする? と少しだけ意地悪く陽月が聞いてくる。
「とりあえず、何かお腹に入れたいよね」
「軽めがいい? サンドイッチとか作らせよっか」
軽快な二人のやり取りを聞いて、春陽の瞳からぽろりと涙がこぼれる。
……本当は、ずっと怖かった。発情期という、自我も忘れて見境なく盛ってしまう行為に。ただでさえ、何の役にも立たないのに、相手の時間さえも強制的に奪って、種を欲するだけの害悪にしかならないと、春陽は思っていたから。
陽月と陽太と、愛しい二人に囲まれて、許されて。おまけに「ありがとう」と感謝される……。こんなにも幸せな時間になるなんて……思いもしなかった。
「おれ……」
迷惑かけたのに、そう言葉にするのは簡単だ。けれど、本当に伝えたい言葉はそうじゃない。
「あ、ありがとう……。おれのこと、あいしてくれて……」
言葉と一緒に、とめどなく涙があふれてくる。悲しいわけじゃない。むしろ、とても
「しあわせ、すぎて……こわい……。ゆめじゃ、ないよね……?」
情けない不安を口にすると、ふわりと両側から二人が包み込んでくれる。
「夢じゃない」
「ちゃんと現実だよ。ほら、温かいの、分かるでしょ……?」
自分と同じように、二人の声もくぐもっている気がする。うんっ……、と返事をすると、交互に唇を塞いでくれた。
「……おかえり、はる。もう離さない」
「どこへも行かせないから、覚悟してて」
三人での交わりは、温かくて、優しい。
のぼせ上がるほどの熱があるのに、不思議と凪いで。
どちらの性も穏やかに、けれど相乗に反応して、心も体も、とろとろと愛に溶けていく。
陽月のものも、陽太のものも、交互に同じ場所で感じた。
二人の種が春陽の子宮の中で混じり合って、幸せの極みへ導いてくれる。
きもちいい。だいすき。あいしてる。
それしか伝えられない。けれど、それだけ伝えられれば良かった。
だって、他には何もいらないから。
春陽と、陽月と、陽太と。三人だけで存在する世界は、どんな世界より安心出来て、幸福で、愛に満ちていて、魂が帰っていく深い聖域、そのものだった。
お腹が空いたら食事をして、重なりたい時に重なって、眠くなったら寝る。
広いソファーにぎゅうっとくっつき合って、映画を流し見たりもした。
何してほしい? どうしてほしい? 全部叶えるよ――。
二人はそう言って春陽を甘やかしてくれる。けれど、特別に欲しいものや、望むものなんてなかった。
会話すらない静かな時間も、生産性のない事のように思えるけれど、春陽にとっては有意義な時間だった。
忙しい二人の時間を奪ってしまうことに、罪悪感がないと言えば嘘になる。発情期はとうに落ちついているのだから、離れても平気だと、頭では分かっている。
ただ、一緒にいたい。離れていた時間を埋めるように、そばにいたい。
そんな春陽のわがままは、笑って叶えられて、いつもの日常へ戻って行く。
「本当に、どんな修羅場になるかとヒヤヒヤしたよ」
春陽の様子を見に来た倫に言われ、春陽は「あはは……」と眉を下げた。
「俺も……発情期なんて、悪いイメージしかなかったです。こんなに幸せだとは思わなかった」
「うん。そう思えるのは、はるちゃんだけだと思うよ。特別」
倫が断言して、春陽が照れ笑いを隠すように俯く。
「……こんなに仕事休むと、動き出すの億劫になるね」
ぽつりと陽太がこぼす。
「ずっと休みで良いかも」
「え、えぇ……?」
完全にやる気を無くしたような陽太の態度に、春陽が困惑する。まるで大型連休明けの学生みたいだ。
「ひなの執務机の上、書類だらけかもよ?」
「それはひいだって一緒だろ?」
春陽を挟んで、陽月と陽太が一瞬顔を見合わせた。お互いそっぽを向いてため息をつく。
「こらこら。二人ともだらけないの。はるちゃんが困ってるだろ?」
「「……困ってる?」」
「えっ……!? えっと……俺の方こそ……たくさん時間取っちゃったから……。手伝えることがあるなら、手伝うけど……」
何が出来るかは分からないけれど、お茶を淹れることくらいなら出来るかもしれない……。
ぽん、と春陽の頭に陽太の手が乗る。
「嘘だよ。ちゃんと仕事はするから」
「仕事もするし、俺もひなも、はるとの時間もちゃんと取るから」
そう言って、笑ってくれる。
「……うん。ゆっくり出来たのは嬉しかったけど、仕事してる二人も、格好よくて好き」
普段の姿を思い描いて、春陽はそう言葉にする。忙しそうにしている二人も、ビシッとしていて素敵なのだ。
褒めたのに、両側からは「はあぁ〜……」と、何故かため息。
「あははっ。はるちゃんの勝ちだね」
倫が軽快に言って、春陽は疑問符を浮かべた。
「何事もなく過ぎて良かったよ。しかも初めてで、こんなに早く発情期が明けるなんてこと、本当に稀だからな」
玄関に向かいながら、倫は陽太に投げかける。
「分かっているよ。……ところでさ、お前、気付いた?」
「何に?」
足を止めて陽太を見れば、上機嫌に顔を緩ませている。
「はるの記憶が戻ったせいなのかな? ひいの俺の呼び方、変わったんだよ。“ひな”って呼んでくれんの」
「ああ……」
そう言われれば、そんな気がする。春陽の記憶が戻ったからなのか、それとも別の理由があるのか。
「……反抗期でも終わったんじゃない?」
「そうかも」
「良かったねぇ。可愛い弟が戻って来て」
「うん」
適当に返したつもりだった。けれど、あまりにも陽太が幸せそうなので、それ以上茶化すのもやめた。
春陽と同じように、陽月も、陽太も、それぞれに乗り越えたものがあったのかもしれない――そう、倫は思った。
※※※※※
金曜日。久しぶりに学校へ行くと、想像通り生徒会室の陽月の机の上には、書類が山になっていた。
パラパラと捲って見ると、きちんと目を通した跡があった。『会長に要確認』との付箋を見つけ、少し嬉しくなる。
数日間、全て任せて大丈夫だろうかと不安はあったけれど、やる時はやるようだ。
溜まった仕事を片付けて、春陽を迎えに。いつものように駐車場の隅で待っていると、昇降口に春陽と、春陽が友人と呼ぶ男たち――田村、遠藤、丸本――三人の姿を見つけた。
加谷が車のドアを開けるより早く、陽月は外へ飛び出して行く。
「陽月様?」
いつもと異なる主の行動に、加谷は少し驚いた。けれど、堂々たる陽月の後ろ姿と、春陽の様子に目を向けて「ああ」と微笑む。
昇降口はいつもの様にガヤガヤと騒がしい。
「でさ、福ちゃん先生のあれさぁ」
靴を履き替え、春陽が友達に話しを振ると、突然女子生徒の黄色い声が響き渡った。鼓膜がキンキンするような甲高い声は、いつ聞いても驚いてしまう。
何だろう、と外に顔を向けると、陽月がすぐそこまで来ていた。目が合うと「はる」と穏やかに笑う。
きゃああああ~!!!!! と、まるで芸能人でも見たかの様な周りの反応に、春陽は動きを止めた。陽月はそんな周りの生徒を気にする様子もなく、昇降口の中へ入って来る。
「こんにちは。春陽のご友人の方々ですよね」
にこり、と上品に瞳を細めて、陽月は春陽の友だちに声をかけた。は、はい……と三人も、緊張した面持ちで返事をする。
「いつも春陽がお世話になっています。春陽の番で、陽月と申します」
いつもに増して、きらきらと王子様エフェクトを纏いながら、どうぞよろしく、と握手を求める。
周りの喚声も、陽月の行動も、腰を抜かす友人たちも、どこか遠くの様に春陽は思う。驚き過ぎて、頭が真っ白になってしまったのだ。
……なに……なにごと……!?
「ちょっ、ちょっと、ひいっ、どうしたの??」
「いや、いつかちゃんと、挨拶したいと思っていたから」
微笑んで言われても、春陽にとっては大迷惑だ。
「帰ろう」
陽月は立ち尽くす春陽の手を取った。では、と周りに会釈をして、エスコートするようにその場から連れ去る。
背中で、止まらない興奮の声を聞く。
「も、もうっ、目立ってるじゃんっ!」
来週、またクラスメイトに問いただされる。
「……嫌だった?」
そう聞いてくるくせに、全然反省したような顔ではない。むしろ「言ってやった」と、清々しい表情でさえある。
春陽は言葉に詰まる。目立つのは嫌だけれど……本当は、嬉しい。
返事の変わりに、繋ぐ指先に力を込めた。重ねていただけのそれが、ゆっくりと絡まっていく。
恋人の繋ぎ方をして寄り添う二人を、加谷は満面の笑みで迎えた。
「お帰りなさいませ」
開いたドアから車内へ。そして、いつもの様に唇を重ねた。
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