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第13話

 換気のため開け放たれた窓から、春陽と山霧の明るい声がする。部屋の下を通りながら、江崎は喜びに目を細めた。  悟志の暴挙は、どうなることかと心配したけれど、無事に収束して本当に良かった。  思えば、瀬野家のこれまでは、幸せだけではなかった。  直系として、丈之助の子供は璃々子一人だけだった。本来なら、複数の世継ぎを残し、その中から一番良いものを選ぶのが、上流階級の常だ。しかしながら、丈之助は子宝に恵まれなかったのか、璃々子しか授かることはなかった。  α同士で結婚した、璃々子と翔。本来なら、αの璃々子が子供を産むことは、αの本質からズレていた。けれど、どうしても世継ぎを残す必要があったのだろう、と江崎は思う。  そのせいか、日に日に体を弱らせていく璃々子を見守るのは辛かった。自分の余命が長くないことを知っていた璃々子は、短い間でも、陽太にたくさんの愛情を掛けていたから。  早くに母を無くした陽太は、精神的に大人になるのも早かった。そう、成らざるを得なかったとも言える。無条件に甘える先がなくなったのだから。  それから数年後、翔が後妻を娶った。陽月と春陽の面倒を見る陽太は、とても幸せそうだった。二人の母である優実に対しても、本当の母のように懐いて……。  優実と春陽が追い出された後の瀬野家は、暖かさを失ったようだった。  あの頃は、陽太様も陽月様も、ただ“生きていた”だけだったわ……。  春陽の部屋の窓から、一瞬山霧が姿を見せた。 「春陽様、すぐにお茶をお淹れしますから、そのクッキー食べましょう」  わくわくとした声と共に、ぱたん、と窓が閉まる。  あたたかい、と江崎は感じる。実際、そこに居なくとも、感じることが出来るのだ。そこに瀬野家の春が有るのだから。  悟志の後、執事長には誰が就くのか。使用人たちの間でも話題になっている。多くが、達臣の帰りを待っていた。江崎ももちろん、そう願う一人だ。 「達臣がいないと、どうも締まらないね」と陽太が愚痴をこぼしていた。だから、きっと戻って来るのでは、と予感している。  達臣がいれば、江崎が陽太のプライベートな番号に回すことは、二度とないだろう。  穏やかな秋風に乗って、ヘリコプターの羽音が聞こえてくる。 「あら、珍しい。遊覧かしら」  空を見上げると、ヘリが一機こちらに近づいて来るのが分かる。てっきり通り過ぎるかと思いきや、屋敷のヘリポートの上でホバリングを始めた。 「……まさか……」  驚いて見つめていると、春陽が屋敷から飛び出して来て、着陸するヘリに向かって行った。その後を山霧も追いかけてくる。 「あっ、江崎さんっ」   江崎の姿を目に留めて、山霧はこちらに方向を変えた。 「春陽様が突然走り出して行かれて……何かあったんですか? あのヘリコプター何ですか?」  矢継ぎ早に聞く山霧に、江崎も驚きを隠さずに言う。 「翔様だよ!」 「翔、様……って、ご当主様!?」  山霧が声を張り上げる。存在は知っているが、山霧もまだ会ったことはない。 「相変わらず、急にお帰りになられるんだから……!」  困ったように、けれど喜びの混じった声を上げ、江崎も小走りにヘリコプターへと向かった。  ※※※※※  その日、陽太は雅明の家に訪れていた。理由はもちろん、達臣を瀬野家に呼び戻すために。  それで良いよね、と翔に確認すると、良いよ、と返事が来た。 「直接、僕が話をしに行くよ」 『ひな、行ってくれんの?』 「行くよ。電話でなんて失礼だろ」 『そっか。じゃあよろしく!』  気軽に答えて電話は切れた。  瀬野家ほどではないが、執事の名門として名を馳せる永戸家も、階級的には上位に当たる。立派な和風造りの屋敷は、洋風建築の瀬野家とは対称的で、陽太には目新しく映った。  通された応接間で達臣と向き合う。達臣はまず先に悟志の無礼を詫びた。もちろん、陽太もそれは許せたものではないけれど、本題はそこではない。 「達臣さんに、瀬野家の執事長をお願いしたいと思っています」  はっきりと告げると、達臣は静かに瞳を伏せた。 「父とも相談を致しました。やはり、適任は達臣さんしかいないと思っています。もちろん、執事としての貴方の矜持も理解しているつもりです。ですが……どうか、今一度、お力添えを頂けないでしょうか……?」  深く頭を下げて、陽太は願う。その後ろでは、雅明も同じように頭を下げていた。 「……陽太様、お顔をお上げ下さい」  達臣の穏やかな声が、陽太の要望をそっと受け取るように響く。達臣の顔を見ると、いつかの……お目付け役として陽太に仕えていた時の、慈しむような表情がそこにあった。 「ご立派になられましたね」と達臣は昔を思い出すように言う。陽太は、少し驚いた。 「私は……先は璃々子様の執事として瀬野家に仕え始めました。璃々子様の亡き後は、陽太様のお目付け役を仰せつかり、雅明が貴方の執事になるまで、側で見守っておりました。もちろん、私が丈之助様の執事となってからも、それは変わりません」 「……はい」 「貴方様は、言うなれば、私の最初の主が残した、大切な宝物のような存在なのです。今までも、これからも、それは変わらないでしょう」  達臣の瞳が慈愛に揺れる。それ以上に、陽太の瞳も揺れていた。達臣の思いが痛いほどに伝わってきて、愛されている事が、ただただ嬉しい。 「陽月様や春陽様に対しての、丈之助様の行いについては、許しを請うつもりはございません。丈之助様も、寂しいお方だったのです。……陽太様と違って、何も持っていらっしゃらなかった」 「そう……ですね……」 「ですから、私からのせめてもの償いのために、瀬野家を去ることを決めました。私が居ては、丈之助様の影を思い出す事もあるでしょうから。……けれど、欲を言わせて頂けるならば、この先も見守っていけたらと、思っているのですよ」  にこり、と穏やかに達臣が微笑む。じゃあ……、と陽太は前のめりに先の言葉を期待した。 「翔様と陽太様がお許しくださるのなら、喜んで、大役を拝命させて頂きます」  今度は達臣が深々と頭を下げる。陽太は、ほっと胸を撫で下ろした。 「ぜひ……。達臣さんにしか、お願い出来ない事です。重責を負わせる事になりますが、よろしくお願い致します」 「……本来なら、陽太様がこのように改まって頂く必要もないのですよ。“達臣、やってよ”くらいのお願いでも構いませんのに」  昔を思い出すように、達臣は笑う。ふっ、と空気が緩んだ。 「あはは……。もうそんなに幼い歳でもありませんよ。まぁ、達臣さんにとっては、僕はずっと子供なのかもしれませんが……」 「いいえ。陽太様はご立派にお務めになられていらっしゃいますよ。今回のお話も、陽太様を信頼して、翔様がお任せになられたのでしょう。本当なら、このお話は翔様と致す予定だったのですよ」  突然飛び出してきた父の名前に、陽太は驚いて目をぱちくりさせた。どういう事だろう、今朝の電話では、そんなこと一言も言っていなかったのに。 「執事長のお話は、翔様より事前にお伺いしておりました。もっとも、翔様ともなれば、“お願い”よりも“強制”という感じですがね」  雅明が悟志の事を報告に来た夜。翔からの着信を達臣は受けた。内容はもちろん、執事として留まるように、との事だった。 『ねぇ達臣、君は誰の執事だか分かってる?』  翔にそう聞かれ、達臣は一瞬身構えた。丈之助の名前を出せば、それは仮のね、と翔に言い返される。 『達臣は璃々子の執事でしょ? 忘れちゃった?』 「いえ。……忘れてなどおりません」 『じゃあ、璃々子の亡き後は、誰の執事になるべきだと思う? 伴侶の俺だよね?』  言われれば、そうだ……。翔には寿津彦が付いていたから、丈之助の命令のまま、丈之助に仕えていた。けれど、元を正せば璃々子の執事なのだから、翔に仕えるべきではなかっただろうか……。 「申し訳ございませんでした、翔様」  そう謝罪を口にすると、分かればよろしい、と許される。 『じゃあ俺の言うこと聞けるよね。ごめんけど、俺はひなみたいに優しくないからさ。執事の矜持とか置いといて、一時的に達臣を瀬野家の執事長にする。いいね?』  否定の余地はなかった。翔の言葉は強かったけれど、その声には慈しみが含まれていて、不思議と、穏やかにそれを受け入れる事が出来たのだから。 「……驚きましたよ、『悟志の後任として颯真を帰国させるから、指南をよろしく』なんて」 「えっ!?」  陽太も雅明も、思わず声を上げた。颯真は翔が連れている執事の一人で、雅明の実弟だ。もちろん、執事長を任せる事に異論はない人物なのだが……。  二人の驚いた様子に、達臣は疑問符を浮かべた。 「お二人でご相談されたのではないのですか? てっきり、陽太様もご存知だと思っておりましたが……」 「聞いてないよ……」  頭を抱える陽太の代わりに、「どういう事か詳しく教えて」と雅明が口を開く。 「言った通りだよ。……翔様は、ゆくゆくは颯真を執事長に据えるおつもりです。私は颯真の指南役として、一時的に執事長の任を仰せつかるだけですから。……ほら、噂をすれば、そろそろご帰宅なのではないでしょうか」  窓の外に視線を向けながら、達臣は言った。耳を澄ませていると、ヘリコプターの羽音が聞こえてくる。陽太は慌てて席を立ち、縁側へと走り寄った。雅明がそれに続き、窓を開く。見上げた二人の視線の先を、一機のヘリが過ぎて行った。 「ああっ、もう! いつも重要な事は言わないんだから!」  陽太は苦虫を噛み潰した。  今度帰ったら、はるをうんと甘やかしたいな。はる、どこへ遊びに行きたいかな?――そう抜かしていた翔を思い出す。  もちろん、久しぶりの親子の再会なのだから、それは許す。ただ、遊びに連れて行く、となると話が変わってくる。  翔の遊び場は範囲がとにかく広いのだ。陽太も陽月も、翔の遊びに付き合わされて、これまで様々な場所へ連れて行かれた。正直、車で移動出来る程度のものではない。下手をすれば、海外だ。  春陽は間違いなく攫われる。今から屋敷へ向かっても、間に合わないかもしれない。翔は行動すら早いのだから。 「今日、ひいはどこへ出かけていたっけ?」 「区内の美術館だったと思います。早ければそろそろお戻りになられるかと」  腕時計を見ながら雅明が告げる。陽太は急いで陽月にコールした。  電話口の陽太の一声で、異常事態が発生したことを陽月は知る。先程目にしたヘリは、やはり父だと確信した。  丁度、帰宅の途中ではあった。けれど、恐らくは自分も間に合わないだろう。車内で事の経緯を聞き、陽月もあ然となった。 「何で言わないんだよ……」  いつもそうだ。翔は独断ですべてを決めてしまう。しかも、大体筋が通っているから反論も出来ない。  敷地のヘリポートに到着すると、陽月は我先に車から飛び出した。けれど、間一髪のところでヘリコプターは上空に舞い上がってしまう。 「っ! クソ、間に合わなかった……!」  そう吐いて、強風に髪を遊ばせながら、陽月はヘリを睨みつけた。  春陽の在宅を期待したけれど、同じように上空を見上げる江崎と山霧の姿を見つけ、絶望的だと直感する。 「江崎、山霧、はるは!?」  走り寄って問う。「春陽様ならあちらに……」と、山霧が遠くなっていくヘリコプターを指さして告げた。やっぱり、と陽月はため息をつく。 「翔様がお帰りになられまして……。陽月様はご存知でいらっしゃいましたか?」 「いや、聞いてない。さっきひなから連絡が来て、急いで帰って来た。どこへ行くか、二人は聞いてないか?」 「私たちは何も」 「少しだけ二人でお話されて、すぐに飛んで行っちゃいました」 「はぁ〜……いつものパターンだ……」  陽月は春陽の携帯を呼び出す。こちらも、長いコール音が響くだけで取られる事はなかった。残念ながら、それは春陽の部屋で寂しく鳴いていたのだ。 「ひい!」  戻って来た陽太が駆け寄ってくる。 「ごめん、ひな。間に合わなかった」 「ううん。俺こそ確認不足だった。今朝電話で話したのに、帰ってくるなんて一言も言ってなかったから」 「はるの携帯も、呼び出すけど繋がらない」 「……参ったな……」  雅明は、その場に一人残された颯真の元へ。加谷は携帯を切ると、陽月たちに向き直った。 「父はどうやら翔様とは別行動のようです。帰国はしているようですが……」 「えっ!? 寿津彦さんと一緒じゃないの?」 「颯真はここに居るし……ということは、父さん完全に一人か」  詰んだ……と陽太と陽月は同時に思う。春陽と二人なら、連絡したところで出るはずもないだろう。邪魔されたくないのは、二人も一緒だから。  小さなキャリーケースを引きながら、颯真は雅明と並んでやって来る。 「陽太様、陽月様、お久しぶりでございます。翔様の命により戻って参りました」  颯真は丁寧に会釈をして告げる。その身のこなしと上品さは、さすが名門の永戸家らしく、洗練されている。 「お帰り、颯真。悪いけど、父さんがどこへ行ったか知ってる?」  挨拶もそこそこに、陽太は颯真に聞いた。 「申し訳ありません。そこまでは私も伺っておらず……」 「どこか行きたいところとか、言ってなかった?」 「左様ですね……。あ、先日、うどんが食べたいなぁと、こぼしていらっしゃいましたよ」  思い出したように颯真は言った。うどん? と全員が復唱する。 「はい。“本場のうどん、食べたことないなぁ”と……」  本場のうどん。……ならば、とりあえず国内ではあるはずだ。しかし……。 「いや……遠いだろ……」 「空路でも一時間以上はかかるよ……」  ため息をつく主の隣で、雅明と加谷は、最速で追いかける方法を探し始めていた。

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