14 / 16
第13話
換気のため開け放たれた窓から、春陽と山霧の明るい声がする。部屋の下を通りながら、江崎は喜びに目を細めた。
悟志の暴挙は、どうなることかと心配したけれど、無事に収束して本当に良かった。
思えば、瀬野家のこれまでは、幸せだけではなかった。
直系として、丈之助の子供は璃々子一人だけだった。本来なら、複数の世継ぎを残し、その中から一番良いものを選ぶのが、上流階級の常だ。しかしながら、丈之助は子宝に恵まれなかったのか、璃々子しか授かることはなかった。
α同士で結婚した、璃々子と翔。本来なら、αの璃々子が子供を産むことは、αの本質からズレていた。けれど、どうしても世継ぎを残す必要があったのだろう、と江崎は思う。
そのせいか、日に日に体を弱らせていく璃々子を見守るのは辛かった。自分の余命が長くないことを知っていた璃々子は、短い間でも、陽太にたくさんの愛情を掛けていたから。
早くに母を無くした陽太は、精神的に大人になるのも早かった。そう、成らざるを得なかったとも言える。無条件に甘える先がなくなったのだから。
それから数年後、翔が後妻を娶った。陽月と春陽の面倒を見る陽太は、とても幸せそうだった。二人の母である優実に対しても、本当の母のように懐いて……。
優実と春陽が追い出された後の瀬野家は、暖かさを失ったようだった。
あの頃は、陽太様も陽月様も、ただ“生きていた”だけだったわ……。
春陽の部屋の窓から、一瞬山霧が姿を見せた。
「春陽様、すぐにお茶をお淹れしますから、そのクッキー食べましょう」
わくわくとした声と共に、ぱたん、と窓が閉まる。
あたたかい、と江崎は感じる。実際、そこに居なくとも、感じることが出来るのだ。そこに瀬野家の春が有るのだから。
悟志の後、執事長には誰が就くのか。使用人たちの間でも話題になっている。多くが、達臣の帰りを待っていた。江崎ももちろん、そう願う一人だ。
「達臣がいないと、どうも締まらないね」と陽太が愚痴をこぼしていた。だから、きっと戻って来るのでは、と予感している。
達臣がいれば、江崎が陽太のプライベートな番号に回すことは、二度とないだろう。
穏やかな秋風に乗って、ヘリコプターの羽音が聞こえてくる。
「あら、珍しい。遊覧かしら」
空を見上げると、ヘリが一機こちらに近づいて来るのが分かる。てっきり通り過ぎるかと思いきや、屋敷のヘリポートの上でホバリングを始めた。
「……まさか……」
驚いて見つめていると、春陽が屋敷から飛び出して来て、着陸するヘリに向かって行った。その後を山霧も追いかけてくる。
「あっ、江崎さんっ」
江崎の姿を目に留めて、山霧はこちらに方向を変えた。
「春陽様が突然走り出して行かれて……何かあったんですか? あのヘリコプター何ですか?」
矢継ぎ早に聞く山霧に、江崎も驚きを隠さずに言う。
「翔様だよ!」
「翔、様……って、ご当主様!?」
山霧が声を張り上げる。存在は知っているが、山霧もまだ会ったことはない。
「相変わらず、急にお帰りになられるんだから……!」
困ったように、けれど喜びの混じった声を上げ、江崎も小走りにヘリコプターへと向かった。
※※※※※
その日、陽太は雅明の家に訪れていた。理由はもちろん、達臣を瀬野家に呼び戻すために。
それで良いよね、と翔に確認すると、良いよ、と返事が来た。
「直接、僕が話をしに行くよ」
『ひな、行ってくれんの?』
「行くよ。電話でなんて失礼だろ」
『そっか。じゃあよろしく!』
気軽に答えて電話は切れた。
瀬野家ほどではないが、執事の名門として名を馳せる永戸家も、階級的には上位に当たる。立派な和風造りの屋敷は、洋風建築の瀬野家とは対称的で、陽太には目新しく映った。
通された応接間で達臣と向き合う。達臣はまず先に悟志の無礼を詫びた。もちろん、陽太もそれは許せたものではないけれど、本題はそこではない。
「達臣さんに、瀬野家の執事長をお願いしたいと思っています」
はっきりと告げると、達臣は静かに瞳を伏せた。
「父とも相談を致しました。やはり、適任は達臣さんしかいないと思っています。もちろん、執事としての貴方の矜持も理解しているつもりです。ですが……どうか、今一度、お力添えを頂けないでしょうか……?」
深く頭を下げて、陽太は願う。その後ろでは、雅明も同じように頭を下げていた。
「……陽太様、お顔をお上げ下さい」
達臣の穏やかな声が、陽太の要望をそっと受け取るように響く。達臣の顔を見ると、いつかの……お目付け役として陽太に仕えていた時の、慈しむような表情がそこにあった。
「ご立派になられましたね」と達臣は昔を思い出すように言う。陽太は、少し驚いた。
「私は……先は璃々子様の執事として瀬野家に仕え始めました。璃々子様の亡き後は、陽太様のお目付け役を仰せつかり、雅明が貴方の執事になるまで、側で見守っておりました。もちろん、私が丈之助様の執事となってからも、それは変わりません」
「……はい」
「貴方様は、言うなれば、私の最初の主が残した、大切な宝物のような存在なのです。今までも、これからも、それは変わらないでしょう」
達臣の瞳が慈愛に揺れる。それ以上に、陽太の瞳も揺れていた。達臣の思いが痛いほどに伝わってきて、愛されている事が、ただただ嬉しい。
「陽月様や春陽様に対しての、丈之助様の行いについては、許しを請うつもりはございません。丈之助様も、寂しいお方だったのです。……陽太様と違って、何も持っていらっしゃらなかった」
「そう……ですね……」
「ですから、私からのせめてもの償いのために、瀬野家を去ることを決めました。私が居ては、丈之助様の影を思い出す事もあるでしょうから。……けれど、欲を言わせて頂けるならば、この先も見守っていけたらと、思っているのですよ」
にこり、と穏やかに達臣が微笑む。じゃあ……、と陽太は前のめりに先の言葉を期待した。
「翔様と陽太様がお許しくださるのなら、喜んで、大役を拝命させて頂きます」
今度は達臣が深々と頭を下げる。陽太は、ほっと胸を撫で下ろした。
「ぜひ……。達臣さんにしか、お願い出来ない事です。重責を負わせる事になりますが、よろしくお願い致します」
「……本来なら、陽太様がこのように改まって頂く必要もないのですよ。“達臣、やってよ”くらいのお願いでも構いませんのに」
昔を思い出すように、達臣は笑う。ふっ、と空気が緩んだ。
「あはは……。もうそんなに幼い歳でもありませんよ。まぁ、達臣さんにとっては、僕はずっと子供なのかもしれませんが……」
「いいえ。陽太様はご立派にお務めになられていらっしゃいますよ。今回のお話も、陽太様を信頼して、翔様がお任せになられたのでしょう。本当なら、このお話は翔様と致す予定だったのですよ」
突然飛び出してきた父の名前に、陽太は驚いて目をぱちくりさせた。どういう事だろう、今朝の電話では、そんなこと一言も言っていなかったのに。
「執事長のお話は、翔様より事前にお伺いしておりました。もっとも、翔様ともなれば、“お願い”よりも“強制”という感じですがね」
雅明が悟志の事を報告に来た夜。翔からの着信を達臣は受けた。内容はもちろん、執事として留まるように、との事だった。
『ねぇ達臣、君は誰の執事だか分かってる?』
翔にそう聞かれ、達臣は一瞬身構えた。丈之助の名前を出せば、それは仮のね、と翔に言い返される。
『達臣は璃々子の執事でしょ? 忘れちゃった?』
「いえ。……忘れてなどおりません」
『じゃあ、璃々子の亡き後は、誰の執事になるべきだと思う? 伴侶の俺だよね?』
言われれば、そうだ……。翔には寿津彦が付いていたから、丈之助の命令のまま、丈之助に仕えていた。けれど、元を正せば璃々子の執事なのだから、翔に仕えるべきではなかっただろうか……。
「申し訳ございませんでした、翔様」
そう謝罪を口にすると、分かればよろしい、と許される。
『じゃあ俺の言うこと聞けるよね。ごめんけど、俺はひなみたいに優しくないからさ。執事の矜持とか置いといて、一時的に達臣を瀬野家の執事長にする。いいね?』
否定の余地はなかった。翔の言葉は強かったけれど、その声には慈しみが含まれていて、不思議と、穏やかにそれを受け入れる事が出来たのだから。
「……驚きましたよ、『悟志の後任として颯真を帰国させるから、指南をよろしく』なんて」
「えっ!?」
陽太も雅明も、思わず声を上げた。颯真は翔が連れている執事の一人で、雅明の実弟だ。もちろん、執事長を任せる事に異論はない人物なのだが……。
二人の驚いた様子に、達臣は疑問符を浮かべた。
「お二人でご相談されたのではないのですか? てっきり、陽太様もご存知だと思っておりましたが……」
「聞いてないよ……」
頭を抱える陽太の代わりに、「どういう事か詳しく教えて」と雅明が口を開く。
「言った通りだよ。……翔様は、ゆくゆくは颯真を執事長に据えるおつもりです。私は颯真の指南役として、一時的に執事長の任を仰せつかるだけですから。……ほら、噂をすれば、そろそろご帰宅なのではないでしょうか」
窓の外に視線を向けながら、達臣は言った。耳を澄ませていると、ヘリコプターの羽音が聞こえてくる。陽太は慌てて席を立ち、縁側へと走り寄った。雅明がそれに続き、窓を開く。見上げた二人の視線の先を、一機のヘリが過ぎて行った。
「ああっ、もう! いつも重要な事は言わないんだから!」
陽太は苦虫を噛み潰した。
今度帰ったら、はるをうんと甘やかしたいな。はる、どこへ遊びに行きたいかな?――そう抜かしていた翔を思い出す。
もちろん、久しぶりの親子の再会なのだから、それは許す。ただ、遊びに連れて行く、となると話が変わってくる。
翔の遊び場は範囲がとにかく広いのだ。陽太も陽月も、翔の遊びに付き合わされて、これまで様々な場所へ連れて行かれた。正直、車で移動出来る程度のものではない。下手をすれば、海外だ。
春陽は間違いなく攫われる。今から屋敷へ向かっても、間に合わないかもしれない。翔は行動すら早いのだから。
「今日、ひいはどこへ出かけていたっけ?」
「区内の美術館だったと思います。早ければそろそろお戻りになられるかと」
腕時計を見ながら雅明が告げる。陽太は急いで陽月にコールした。
電話口の陽太の一声で、異常事態が発生したことを陽月は知る。先程目にしたヘリは、やはり父だと確信した。
丁度、帰宅の途中ではあった。けれど、恐らくは自分も間に合わないだろう。車内で事の経緯を聞き、陽月もあ然となった。
「何で言わないんだよ……」
いつもそうだ。翔は独断ですべてを決めてしまう。しかも、大体筋が通っているから反論も出来ない。
敷地のヘリポートに到着すると、陽月は我先に車から飛び出した。けれど、間一髪のところでヘリコプターは上空に舞い上がってしまう。
「っ! クソ、間に合わなかった……!」
そう吐いて、強風に髪を遊ばせながら、陽月はヘリを睨みつけた。
春陽の在宅を期待したけれど、同じように上空を見上げる江崎と山霧の姿を見つけ、絶望的だと直感する。
「江崎、山霧、はるは!?」
走り寄って問う。「春陽様ならあちらに……」と、山霧が遠くなっていくヘリコプターを指さして告げた。やっぱり、と陽月はため息をつく。
「翔様がお帰りになられまして……。陽月様はご存知でいらっしゃいましたか?」
「いや、聞いてない。さっきひなから連絡が来て、急いで帰って来た。どこへ行くか、二人は聞いてないか?」
「私たちは何も」
「少しだけ二人でお話されて、すぐに飛んで行っちゃいました」
「はぁ〜……いつものパターンだ……」
陽月は春陽の携帯を呼び出す。こちらも、長いコール音が響くだけで取られる事はなかった。残念ながら、それは春陽の部屋で寂しく鳴いていたのだ。
「ひい!」
戻って来た陽太が駆け寄ってくる。
「ごめん、ひな。間に合わなかった」
「ううん。俺こそ確認不足だった。今朝電話で話したのに、帰ってくるなんて一言も言ってなかったから」
「はるの携帯も、呼び出すけど繋がらない」
「……参ったな……」
雅明は、その場に一人残された颯真の元へ。加谷は携帯を切ると、陽月たちに向き直った。
「父はどうやら翔様とは別行動のようです。帰国はしているようですが……」
「えっ!? 寿津彦さんと一緒じゃないの?」
「颯真はここに居るし……ということは、父さん完全に一人か」
詰んだ……と陽太と陽月は同時に思う。春陽と二人なら、連絡したところで出るはずもないだろう。邪魔されたくないのは、二人も一緒だから。
小さなキャリーケースを引きながら、颯真は雅明と並んでやって来る。
「陽太様、陽月様、お久しぶりでございます。翔様の命により戻って参りました」
颯真は丁寧に会釈をして告げる。その身のこなしと上品さは、さすが名門の永戸家らしく、洗練されている。
「お帰り、颯真。悪いけど、父さんがどこへ行ったか知ってる?」
挨拶もそこそこに、陽太は颯真に聞いた。
「申し訳ありません。そこまでは私も伺っておらず……」
「どこか行きたいところとか、言ってなかった?」
「左様ですね……。あ、先日、うどんが食べたいなぁと、こぼしていらっしゃいましたよ」
思い出したように颯真は言った。うどん? と全員が復唱する。
「はい。“本場のうどん、食べたことないなぁ”と……」
本場のうどん。……ならば、とりあえず国内ではあるはずだ。しかし……。
「いや……遠いだろ……」
「空路でも一時間以上はかかるよ……」
ため息をつく主の隣で、雅明と加谷は、最速で追いかける方法を探し始めていた。
ともだちにシェアしよう!

