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金、それだけ 4
事務室のある一階には、外来の診察室もあるようだった。
診察中のようではあるが、テレビの音だけが静かに響く待合室の椅子に高齢者が間を空けて三人ほどぽつりぽつりと座っているだけである。
二本柳は「橋本さん、中さん、西田さん、明日からうちで働いてくれる派遣の斎藤くん」と一人一人の名前を呼び、俺を紹介しながらその傍を通る。
笑ってくれたのかわからないほどのリアクションだったが、会釈をしていただけたので、こちらも頭を下げ通り過ぎた。
2階、病棟の廊下は静まり返っていた。
階段を上がったすぐ隣にナースステーションがあり、スタッフの一人がパタパタとすぐ向かいの部屋へと入っていくのが見えた。
「ありゃ、はっちょんの部屋じゃねえか?」
二本柳は少しだけ焦ったように詰所にいる看護師へ声をかけた。
柔らかなパーマ、水色のスクラブに白のスラックスの年配の看護師だ。
名札には『看護師長 古川』と書かれてある。
よくよく覗うと古川は電話中で、二本柳にうんうんと軽く頷くようなアイコンタクトを送った。
待って、という意味だろう。
詰所にいる数名のスタッフのうちの一人が「甚一昨日から泊まってんの」と二本柳に声をかけると「そうか」と二本柳は神妙な顔になって深く頷き「あ、そうそう」とひとまず先にというように「派遣の紹介で来た斎藤陽太くん。よろしくね」と一歩踏み出してしまいそうなくらいの力を込めて俺の背中を押した。
スタッフの視線が集まり「よろしくお願いします」と頭を下げる。
「若いねえ」「よろしくね〜」と気安い声がかかって、はにかんだ会釈を返し「全然、新人でもないんで、ビシバシお願いします」ともう一度頭を下げた。
スタッフ自体の年齢層も高いのか、パッと明るくなるような華やかさは無いように思うが、それがかえってじんわりと広がる安心感に繋がっていると感じる。
二本柳とスタッフが患者の話をし始めてしまい、師長は電話が終わらずに、放り出されたような気分になってキョロキョロと詰所を見渡してみた。
必要最低限なのが伺えるモニター、点滴台の数。
やはり懐かしさを感じる棚には輸液のボトルが並んでいる。
入り口には、患者一覧のホワイトボード。
自分が今まで勤めていた病院ではプライバシーへの配慮といってこういったやり方は廃れていた。
先程二本柳からされた説明の通り、入院患者が半分ほどしか埋まっていない。
結局目線の置き場がわからずにそのボードを眺めていた。
個室と思わしき一部屋の名前の上に赤い丸が書き込まれていた。
「いい、いい。心配しないで。とにかく今はゆっくり休んで。何か届ける?」
師長が電話口に向かい話す内容を、皆なんとなく聞いていたのだろう。
「花ちゃん休み?」とスタッフの一人が誰ともなく聞く。
ハナちゃんが誰かもわからず、目線を泳がす事しかできないでいると、スタッフと目が合い「腰、腰。手術したばっかなのさ」と、今来たばかりの自分にまでそう教えてくれた。
古川は電話を終わらせ受話器を置いた瞬間に、はあと周りが心配になりそうなほどの盛大なため息をついた。
「花田さん、やっぱダメかい?」
二本柳が心配顔で古川に声をかける。
「う〜ん…だめかどうかはわかんないけど、全然動けないんだって。帰り寄ってみるわ。花ちゃん家爺ちゃんもいるでしょう?心配だよぉ」
古川は、参ったというように眉を寄せて首を捻る。
「師長さん今日の夜勤どうすんのさ」
「私旦那のご飯作ってから出て来ようか?」
「いいって。共倒れになる」
「でも勤務弄ったらまた困るっしょ」
「そうだけどさぁ」
目の前でどんどん広がっていく会話に、完全に置いてきぼりをくらう最中「あの、俺、入りましょうか……?」と口を開いたのは完全に無意識だった。
古川が、ぽかんと俺を見上げた。
他のスタッフも同様に俺を見ている。
詰所の時間が数秒止まる。
でしゃばった真似をしてしまったのかもしれないが、俺は今までそうやって生き延びて来た。
とりたてて能力が高いわけでも何かに目でている訳でもない呑気なこの独身男性看護師は、誰かが欠けたら率先して入る、いないよりまし、と思わせることで何とか自分の居場所を作ってきたのだ。
そして今現在自分は金を稼ぐ為ここに来ている。
例の医者がいないのならば、俺に残されたものは金を得るための労働だけだ。
緊急事態に手を挙げるのは当然である。
「や、ここが良ければって話で。全然役に立たないかもしれないし…。あ、契約的に無理とかあるんすかね?」
止まってしまったような空気におじけ付き、おどおどとそう言って振り向いた先の二本柳に助けを求めた。
彼も同じ顔をしている。
「え、えっ?い、いいの?」
パチン、と瞬きをした古川は、今度は丸い瞳をウロウロさせながら立ち上がり、周りの反応を見てからずいっと顔を近づけた。
「や、ほんと、邪魔するだけかもしんないすけど…」
尻すぼみになる俺のセリフに、古川の眉が寄り、緊迫している様子がわかる。
「いきなり夜勤にぶち込むブラック病院とか後から言わない?」
「い、言いませんってそんな事」
「え、ちょっと、うん。ええ、どうしよう」
と師長が右往左往としているうちに、ぽん、と肩を叩かれて後ろを振り向くと、分厚いメガネをかけ、髪を一本結びにしたスタッフが「佐々木くんだっけ?」と俺を呼んだ。
「斎藤です。斎藤陽太」
訂正するようにフルネームを言う。
「君、いいわぁ〜」
と言いながら再度肩を叩いくメガネの彼女のネームを盗み見た。
主任の湊さんか。と口の中で呟く。
「陽太最高〜」
いきなり呼び捨てで俺を呼んだ短い髪の綺麗めな女性スタッフは、小野さん。
綺麗だが歳は母と同じくらいじゃないだろうか。
一連の流れを見ていた他のスタッフのパチパチという拍手や「斎藤〜」と呼ぶ野次じみた賛辞も投げられる。
少し顔が赤くなる。
ある意味儀式のようなやり取りは、盛り上がったかと思えば「あ、ちょっと誰か畠中氏と麦ちゃんにLINEして」と言う湊の一言で呆気なく終わったのだった。
ちょっと信じらんないねえ、よかったよかった、などと各々好きな事を言って席に戻っていく様子を、今度はこちらがぽかんと眺める番だ。
「斎藤くん、ほんっとにありがとう。うち本当にギリギリでさ。皆休み返上出勤。助手さん達も」
手まで握って来そうな師長の訴えに「本当に、役に立てば良いんですけど…」と自信なさ気な返事をしながらも、受け入れられた事に胸を撫で下ろした。
「二本柳さん、契約書とか。印押しちゃったんですけど大丈夫ですか?」
先程事務室でもらっている契約書は、背中のリュックに入っている。
書き直しが必要かと二本柳の様子を伺うと「ああ。全然問題ないよ。そんなのどうとでもできる」と、まつ毛びっしりのつぶらな瞳を片目だけ瞑って親指を立てたのだった。
一旦荷物を寮へ持って行った。
荷物と言っても二、三日分の着替えとボクシンググローブしかないのだが。
二本柳が団地まで案内するからと車に乗せてくれたが、何のことはない。
病院からは徒歩で五分もかからない。
言うなればほぼ隣、町の最終地点に団地はあった。
三階建ての三階で、一人で住むには十分すぎる広さだ。
ここに来る前の二本柳とのやりとりで、着の身着のままでいいよ、と言われその通りで島に入った訳だが、その言葉通り家電家具は備え付き、布団は人の入れ替わりの度に病院で新しいものと交換していると言われ、手厚い待遇に少しばかり驚きもあった。
商店街と言って良いかわからないほどの集落は、交番、郵便局、信金、役場、その隙間に定食屋、魚屋精肉店、昔はまだまだ小さな店が細々と点在していたらしいが、今はもう続ける人間がおらず畳んだ店が多いと言う。
隙間にあるような妙にオシャレなカフェは、嫌でも目に止まる。
カフェ以外にも移住して来た若者が経営している飲食店が数店あり、良いのか悪いのかはわからないが、周囲とのチグハグさは否めない。
ローカルコンビニであるセイコーマートがあるのは本当に助かった。
けれど、24時間営業じゃないから気をつけてね、と二本柳に笑われた。
一本の大通りにこれだけの店。
その一本裏には何軒かのスナックや居酒屋があると聞いた。
そこに民家が紛れているような、たったこれだけの島。
空港近くにも居住区があるらしい。
島唯一のスーパーが向こうの区域に建った時には住民からのクレームが出たそうだ。
どうせ一人の身なのだ。どうとでもなる。
細かい物は用意しておくからね、と二本柳に言われ、はぁ、と曖昧な返事をして、空気の入れ替えにベランダの窓を開けたり、押入れを開けたりしているうちに初出勤の時間になってしまった。
景色は残念ながら山と病院しか見えない。
けれど磯の香りはここまで届いている。
職場は数名と顔を合わせただけだが、嫌な空気の漂う雰囲気でもなかった。
ベランダから入る冷たい風はやはり春とは言い難いけれど、頭をすっきりさせるのには丁度いいと思った。
さて、四月も初日だ。新しい生活が始まる。
しばらくは金を稼ぐ為だけに、生きてやろうじゃないか。
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